内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

いまさらながら、手書きの大切さについて

2018-11-29 23:59:59 | 日本語について

 日本学科に勤めていながら、誠にお恥ずかしい話だが、手書きで日本語を書くのは学生たちの作文を添削するために赤字を入れるとき以外、めったになくなってしまっている。講義の準備のための覚書や研究発表の準備ノートには、日本語を書きつけることはあっても、それらは、ほとんどの場合、単語の羅列かばらばらな短文であり、せいぜいのところ二三行の断章のごときものにとどまる。
 もういったい何年、手書きで文章を書いていないだろう。ちょっと思い出せないくらいだ。
 文章を書くことは、ご覧の通り、拙ブログの記事を書くという形で一日たりとも休んだことはないが、同じことを手書きだったらできたかと問われると、まったく自信がない。私は初期のワープロから使っているから、かれこれ三十数年、機械で文章を書くのが習慣になってしまっている。
 今ではまったく当たり前のことになってしまっているローマ字変換入力というのも、日本語を書くのに日本語とは無縁なローマ字を介するという、考えてみれば奇妙な方式だ。変換ミスをしないかぎり、ローマ字表記そのものは画面には現われてこないが、叩いているキーボとにはひらがなもカタカナも漢字もないし、私の使用しているPCはフランスで購入したものだから、キーボードの文字配列も日本語入力のときとフランス語入力のときで違う。いずれにせよ、叩いているのはアルファベットであって、日本語の文字ではない。
 このような身体的動作は、漢字仮名交じり文を、毛筆とは言わないまでも、万年筆で綴ることとはまるで違った指使いであり、腕の位置であり、上体の姿勢であるから、手書きの場合と脳の働き方も違うであろう。
 たとえ学生の作文の添削であっても、いやそうであるからこそ、学生たちに読みやすく、できればお手本になるような字で書こうとするから、一字一字のバランスにも気を使って丁寧に書く。そうしてうまく書けたときは、そのうまく書けた自分の字に満足を覚えることもあるし、赤がいっぱい入った自分の作文を見て、ショックを受けるどころか、「キレイだ」とかえって喜んでくれる学生もいるくらいだが、こういった経験はPCでは当然ありえない。
 書の美などという大げさなことがいいたいわけではないが、短い文章でいいから手書きで丁寧に書くという習慣を復活させたいと思っている。