文学的想像力を刺激するのは、どこの誰でもありうるような一般的な〈人〉であるよりも、ある具体的相貌をもった〈男〉あるいは〈女〉であるのが普通であろう。一昨日の記事の中で話題にしたのは、日本古典文学の典型的形象の一つとしての〈人待つ女〉であった。これは、〈人待つ男〉とも〈人待つ人〉とも入れ替え不可能である。
と、ここまで書いたときは、いくつかの文学作品を例に挙げながら〈人待つ女〉について書くつもりでいた。ところが、自分でも驚いたことに、突然、以下に記すような哲学的世迷言が頭に閃いた。
来ないとわかっている人を待ち続けることに何の意味があるのか。到来することはけっしてないとわかっている出来事を待ち続けるのは愚かしい執着でしかありえないのか。そのような態度は何らかの精神疾患あるいはそれへの傾性の徴標でしかないのか。
確かに、そのような場合もあるだろう。しかし、〈待つ〉ことそのことが一つの実存的態度でありうる場合はないであろうか。それは、しかし、人智では計り知れない奇跡の可能性を信じるということとも、来世あるいは天国での成就や救済を信じる厭世的態度とも違う。むしろ、一切の期待を放棄しつつ、ただ待つこと、待ち続けて死ぬこと、死んだらそれっきり、ということである。それでは、待つことにさえならないのだろうか。
この来るものなくして待つ態度は、見出されるものなくして探す態度と合わせて、あるより根本的な実存的態度のそれぞれ受動相と能動相として捉えることができないだろうか。