万葉第二期において花々が詠み込まれた諸歌については、それらの特徴について、川口論文に興味深い指摘がいくつかあるが、今は“花の流れ”の本筋のみを追いたいので、それらについては言及しない。
万葉第二期の花の歌の中から、次の一首のみを取り上げる。その一首とは、ある具体物としての花が作品形成の過程の中で抽象性を獲得したことを示す作歌例と川口がみなす巻第二・一五八の高市皇子作の挽歌である。
山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
この一首は、題詞「十市皇女の薨ぜし時に、高市皇子尊の御作りたまひし歌三首」の下にまとめられた三首中の第三歌である。左注にあるように、天武七年(六七八)四月七日、宮中で急死した十市皇女に捧げられた挽歌である。
日本書紀によれば、その日、行幸途上で訃報を受けた天武天皇は、ただちに宮中に引き返し、「十四日、皇女を赤穂の地に葬るにあたり、とくに「恩を降して」発哀の礼を行ったという。壬申の乱(六七二年)に、みずからが死に追いやった皇女の夫大友皇子のことを思えば、額田王とのあいだに生んだこの長女への格別ないとおしさを禁じえなかったのであろう(伊藤博『釋注』)。
この挽歌三首を詠んだ高市皇子は、天武の長子、十市皇女の異母兄(あるいは異母弟)であったが、壬申の乱では、天武側の総指揮官であり、皇女の夫を死なしめた張本人の一人であった。その高市皇子がなぜこの挽歌を皇女に捧げたのか。この問いに対しては、壬申の乱後二人は夫婦関係にあったという説が行われているが、中西進は、『万葉の秀歌』の中で、さらに踏み込んで、十市皇女の深い嘆きと耐えがたい苦しみに寄り添うような推測を記している。
書記によれば十市は、天武七年四月七日の寅の刻に、卒然に死んだという。自殺であろうともいわれているが、皮肉な運命に耐え、耐えきれずに生命尽きたのではあるまいか。夫を攻めて殺した仇敵高市の求愛も彼女の死を早めた一因と思われる。その求愛は、十市を苦しめたであろう。長く拒否しつつ、しかしついに受けいれたが、卯月早暁卒然と逝った。その折の高市の嘆きがこの三首である。
中西の推測の当否はともかく、皇女を卒然と喪った皇子の嘆きの深さを詠ったこの三首と日本書紀の記述とが文学的想像力を刺激することは確かである。
第三首についての川口常孝の注解は以下の通り。
この歌はそれ自体で間然するところなく隠喩を成立せしめている。「花実」のもつ実用性は地をはらい、かなしみをちりばめた美的心情の表白が、一首成立の根幹である。花はもはや利用物ではない。黄泉の国を鑑賞者の意識にのぼすべきか否かは第二として、この歌の花は黄の山吹でなければならなず、それ以外のどんな花でも色彩であってもならない。花は一首の存立に深くかかわっているのである。それは、外部から与えられた、あるいは教養的に自己が摂取した、「花」という観念ではなくて、山吹という具体物が、「花」性ともいわれるべき抽象性を作品形成の過程でみずから獲得したことである。まさに「花」の独立である。“花の流れ”は、この辺から本格的になってくる。(20頁)