今日何か腹の立つことがあったからとか、最近何か具体的なきっかけがあったからとか、誰かに恨みがあるとか、そういう直接の理由からではなく、日ごろから思っていることを一言だけ書きつけておきます。他意は一切ございません。
日本学という学問はない。日本の文化・芸術・歴史・言語・社会・民俗などなどを対象とした様々な分野での学問的研究があるだけである。だから、今日では、「日本研究」という言葉のほうが好まれる。意地悪な言い方をすれば、さまざまな分野で日本について研究している外国人たちが日本人の研究者たちと一緒に集まってするシンポジウムというお祭り騒ぎには、「日本学」という言葉を全体をひっくるめる方便としてまだ使えるかも知れない。もっとひねくれた言い方をすると、日本学という発想は、植民地主義の「落とし子」である。日本というエキゾティシズムを刺激してやまない不思議な国を、好奇心で覆い隠した上から目線で見下ろしたときに一つの対象として現れてくる「日本」を研究するガクモンあるいは疑似学問、それが日本学である。したがって、日本学者あるいは日本学の専門家は存在しえない。百歩譲ってその存在を認めるとしても、それらの自称日本学者たちには、いかなる学問分野においても市民権がない。