「花」が「はかなさ」「うつろい」「無常」という否定的な価値とともに倭歌に顕現するのは、旅人邸での梅花の宴にも列していた山上憶良の長歌「世間の住みがたきことを哀しぶる歌」(巻第五・八〇四)の異文系統においてである。「咲く花の 移ろひにけり 世間は かくのみならし」がそれである。川口論文は、この異文についてこう注解している。
この「花」の内包は、明らかに額田王にも人麿にも見られなかったものである。これまでには「花」が、「移る」という動詞によってうけとめられた例は一つもなかった。
ただし、ここでの「咲く花の」は、「咲く花のように」という意であり、「移ろふ」という動詞に対して連用修飾語として機能しているのであって、「咲く花は移ろう」というような、〈花〉についての一般命題がここでそれとして提示されているわけではない。
問題は、異文中、「咲く花の 移ろひにけり」に続く、「世間は かくのみならし」という句である。この長歌にとってはいかにも不用な句であるが、まさにその不用な句に受けられたことによって、「咲く花の 移ろひにけり」はその内質が一変してしまっている、そう川口論文は指摘する。この句について、川口は、論文「“花”の流れ 一 記紀歌謡から万葉へ」の後注19の中で、次のようにさらに踏み込んだ解釈を提示している。
「世間は かくのみならし」は、別案の考案中に、思わずも憶良の地が出て「一に云はく」のなかにまぎれこんでしまったというほかない。地とは憶良の永遠のテーマである世間無常との対決がそれであり、その露出は、いまの場合の「花」の性格を決定することができるという意味において貴重である。(川口前掲書、84頁)
そして、本文中その直後の個所で、憶良における「花」の意味論的変容について次のように結論づける。
「花」は、世間無常の観念によって完全に思想化され、花の第一の属性たるべき華麗さの要素を、沈痛、索漠たる無常の色に染めかえてしまう。額田王、人麿の花が肯定的価値体系のなかでのものであったとすれば、憶良のそれは否定的価値体系のなかのものである。憶良は花に「喪の花」への道を拓いたのである。(川口常孝『万葉歌人の美学と構造』桜楓社、27頁)
つまり、万葉第三期の山上憶良の「哀世間難住歌」異文において、〈花〉と〈無常〉とが日本詩歌史上はじめて概念的に結合された瞬間に私たちは立ち会っていることになる。