史料自体は歴史そのものではなく、史料もまた「表象」であり、その意味作用を通じてしか、私たちは歴史的「事実」に迫ることができない。その「事実」に迫るための作業としての歴史叙述もまた別の「表象」なのであるから、歴史研究は、これら「表象」と「表象」とのあいだの意味構築作業だともいえる。こう安丸良夫は『現代日本思想論 歴史意識とイデオロギー』岩波現代文庫、第四章「表象と意味の歴史学」の「おわりに」で述べている(166頁)。
しかし、史料を介さないで接近可能な「歴史的事実」というものは存在しないとすれば、「歴史家とは、時間と場所という歴史性のなかで、「表象」について考えるという公準を選び、そうした公準のなかで思考することで人間と社会についての知を拡大してゆけると信ずる者のことだ」と安丸は考える(同頁)。
新しい知への手がかりは、史料を読み進めるなかで素朴な驚きや疑問などから得られるが、しかしそれはまた現代に生きる一人の人間としての感受性や関心などによって媒介されてもいる。[…]歴史的全体性は研究を導く方法的公準であって、それは直接的な史料を欠如している諸次元をも視野に入れ、自分がまだよく知らないような問題群にもかかわっていっこうとするための仕掛けとしての、歴史学的想像力のことだといったほうがよいだろう。(167頁)
歴史的全体性を構想する歴史学的想像力によって、史料に基づいて歴史のある側面を表象化し、それと同時に、史料を欠いた諸次元をも視野におさめ、歴史を奥行ある動的世界として、歴史家の現在において叙述する。その現在の叙述作業を通じて、歴史家もまた己を歴史の中に「書き込み」(これは私の言い方)、人間と社会についての理解を深めていく。歴史家の仕事とはそういうものだと安丸は言いたいのだと思う。
レトリックとイデオロギーは、私たちの認識を曇らせる原因にもなるが、しかし、じつは認識の原点にある駆動力にほかならず、構想力と立場性なしにすぐれた歴史研究が生まれたためしはない。歴史研究は、所詮は後世の人間から見た後知恵であり、しかもつぎつぎとつくりなおされる後知恵ではあるが、しかし、それはのちに得られた知見をふまえて物事を考えなおすということを意味しており、そこには平凡な私たちをすこしずつ賢くしていく効用がある。(同頁)
誰にとっても共通の「普遍的」かつ「客観的」な歴史などどこにも存在しない。歴史とは、事後的に再構築する作業を通じて表象され、意味が付与され、かつ生きられるものであり、しかもその作業に終わりはない。その作業が私たちを少しずつでもより賢くしてくれる、そう信じることが安丸の歴史研究の根本動機になっているのだと思う。
歴史学的な知は、世界の秘密をいっきょに解き明かす黙示録的なものではないが、私たちの生きることの意味についてゆっくりと媒介的に考えさせてくれる鏡たりうるものだ、と私は思う。(同頁)
無媒介な知というものはそもそもありえない。安丸の考え方に従えば、「知る」とは、何かを自覚的に媒介として、そこに映った「表象」相互の意味連関と、その意味連関とそれについての叙述方式との関係とを考え続けることだ。その持続的作業を通じて自己知が現実化されていくのであれば、歴史学的な知とは、漸進的な自己のリアリゼーション(西谷啓治の言葉を使えば、「現成即會得」)でもあると言うことができるだろう。