以下に記すのは、佐藤正英校注・訳『風姿花伝』にざっと目を通してみたかぎりでの第一印象である。
昨日の記事にも引用したように、本書の裏表紙には、「画期的注釈書」とある。ところが、どこか「画期的」なのか、正直なところ、さっぱりわからない。訳者は倫理学・日本思想史を専門とされる東大名誉教授であるが、思想史家としての特段の創意工夫や独自性が訳文に込められているようには読めない。語句の注解には、高校の古典学習レベルの語学的な説明もあり、よく言えば、懇切丁寧だが、厳しく言えば、あらずもがなの注も目につき、なによりも、まさに思想史的観点から注解すべき難語に何の説明もないのに落胆させられた。解説も書誌的・伝記的略述に終始するあっさりとしたもので、新味に乏しい。それに、世阿弥の専門家たちからすれば、行き過ぎと思われる一面的断定も散見され、校注者はいったい誰に向かってものを言っているのか、私にはよくわからない。
もし、『風姿花伝』の校注・訳に思想史家としての独自性が発揮されうるとすれば、各条に付された補説においてであろうが、そこも、多くの場合、訳の要約(それも、しばしば不要な)、あるいは世阿弥の後年の伝書『花鏡』『至花道』の関連箇所を挙げるにとどまり、それらは既存の注釈書ですでに指摘されているようなことばかりだ。
能楽は神仏の祭祀である。これが校注者の強調したい点である。「猿楽は、神・仏事の儀礼であって、神・仏の祭祀において十全に祀られた神・仏に接し、触れるべく願う人々の根源的な欲求に基づいている」(180頁)。「猿楽は、時・空に制約されている老人、女人、武人、物狂、修羅、鬼などが神・仏に接し、触れている夢想を観衆にもたらし、己れもまた、それらとは異なるありようにせよ、神・仏に接し、触れ得る夢想を観衆に感得させる。観衆は修者の物まねにおいて「面白き」に遇う」(181頁)。
しかし、もし猿楽一般がそうであるなら、世阿弥の説く能の独自性はどこにあるのか。むしろ猿楽一般から抜け出し、己に固有な能作を世阿弥が目指した結果として夢幻能が完成されたのだとすれば、世阿弥独自の能楽論を「一般能楽論」として読むことは、少なくとも歴史的には、誤読でしかない。そこまでは言わないとしても、宗教性を持った「能楽本質論」を説く「思想書」として世阿弥の能楽論をあえて読もうというのならば、それ相当の「補説」が要請されなくてはならない。それが本書には欠けている。
ただ、本書の購入が解釈ということについて考えるきっかけを与えてくれた。明日の記事では、『風姿花伝』第三問答条々の中の一条に即して、解釈の合理性という問題について若干の考察を示す。