昨日の記事で話題にしたように、私自身にその気があり、かつ夏休み前の四月から七月の間に二週間あまり日本に滞在することができれば、来年度も「現代哲学特殊演習」という大学院での集中講義を行うことができる。この講義を担当することでいただける給与額は、往復の航空運賃と二週間の滞在費におよそ相当するから、「赤字」にはならないが、「儲け」もない。お金を稼ぐことが目的でこの講義を引き受けているわけではなく、自分で自由に選んだテーマについて日本語で話していいという他にないありがたい機会だから、それをいただけるだけで感謝している。ただ、たとえ土曜日三回だけとはいえ、三週続けて午前九時から午後六時まで五コマ連続で講義するのは、昼食時間を含めて四回休憩するとしても、学生たちにとってかなり過酷だろう。この科目は必修ではないから、履修者が零ということもありえなくはない。まあ、そのときは「自然消滅」ということで致し方ないが。それはともかく、講義内容について考えることは、それ自体が楽しいし、あるテーマについての自分の考えを整理する機会でもある。
テーマは自由に選んでいいとはいえ、フランス語が読める学生は皆無に等しいから、翻訳のないテキストは選びにくい。たとえ英語でも読解の速度はかなり落ちる。それに、たとえ日本語でも、原典講読は、学期あるいは一年を通じて週一回一コマのペースで行う形式のほうが適しているように思う。ここ数年は、その年の前半あるいは前年の後半に何らかのかたちで別の機会に取り上げたテーマを再度取り上げてきた。来年もその方針でいくとすると、次の三つのテーマが考えられる。
『陰翳礼讃』をキー・テキストとし、メルロ=ポンティの『眼と精神』を併せ読み、フランスの美術史家や文芸評論家たちの影についての考察も参照しつつ、日本文化論ではないより普遍的な「陰翳の現象学」を展開する。
西谷啓治の『宗教とは何か』における「空」の思想と和辻哲郎の『倫理学』における「空」の哲学とを比較検討することを通じて、西谷における「空」の思想の先鋭性と徹底性を際立たせ、さらにそこから倫理学的含意を引き出す。翻って、フランシスコ・ヴァレラに代表される現代認知科学の知見に基づいた倫理思想の観点から「空」の倫理学の現代性を示す。
〈なつかしさ〉 « nostalgie » « Sehnsucht » の三つの概念についての比較思想史的考察を行い、この三概念がそれぞれに異なった世界観の時間意識を表現していることを示し、後二者との対比を通じて、〈なつかしさ〉に固有の哲学的含意を引き出す。
これら三つのテーマについて、拙ブログでもこれから折に触れて話題にすることで、少しずつ考察を展開していきたい。