フィヒテによってその初動が与えられた真の創造力としての « das Sehnen » という思想は、初期ロマン主義者たちによって継承・発展・深化される。
フィヒテにおいては未知なるものの認識の動的原理としての価値を与えられた « das Sehnen » は、ロマン主義者たちによってより心理学的・人間学的な概念 « Sehnsucht » へと変容させられる。フリードリヒ・フォン・シュレーゲルは、その晩年の著作の一つで、« Sehnsucht » は「精神の領域において偉大なるもの・美しいもののほとんどすべて」の源泉であると言っている。
すでにフィヒテにおいて、『浄福なる生への導き』の中で、「永遠なるものへの憧憬(Sehnsucht)」は一種の生命原理とされており、それは「有限なるあらゆる存在の最も深い根源」とされていた。人間自身の内には、己のこの内なる渇きを癒やしてくれるものはない。「真の憧憬は、その対象として、接近不可能なものしか持つことができない」と、ゲーテも『詩と真実』の中で言っている(ただし、ゲーテ自身は、この種の憧憬礼讃に対して距離を置いていることを強調しておく必要がある)。
この「憧憬(Sehnsucht)」という原理に対して、フィヒテ、次いでシュライエルマッハーとフリードリヒ・フォン・シュレーゲルは、形而上学的・宗教的な次元を付与する。「憧憬」は、シュレーゲルにとって、「最も先鋭な希求という限定し難い感情」であり、「地上に現実に在るいかなる事物も、たとえ理想的なものであってさえ、その希求に満足を与えることはできない。なぜなら、その希求は永遠なるものへ、より一般的には神性へと向かっているからである。」
『詩についての対話』の中で、若きシュレーゲルは、「憧憬は絶えず再生する」とすでに言っていた。真の「憧憬」は、限界を知らず、「歩一歩、つねにさらなる高みを目指す」(『言語と言葉の哲学』)。シュレーゲルの思考に特徴的な円環的運動においては、神性へと私たちを向かわせる衝動そのものが神的な起源を有している。