内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

何か嫌なんだよなあとしか思えない情けない現実の中で迷い、老いゆく私

2021-11-02 22:04:10 | 雑感

 新渡戸稲造の『武士道』の最終章第17章「武士道の将来」の英語原文にghost という言葉が出て来る。原文は以下の通り。

What won the battles on the Yalu, in Corea and Manchuria, were the ghosts of our fathers, guiding our hands and beating in our hearts. They are not dead, those ghosts, the spirits of our warlike ancestors. To those who have eyes to see, they are clearly visible.

 ここでの ghost に、矢内原忠雄訳は「威霊」、奈良本辰也訳・山本博文訳・山本史郎訳は「霊魂」、大久保喬樹訳は「霊」を訳語としてあてている。Oxford Advanced Learner's Dictionary によると、ghost   とは、the spirit of a dead person that a living person believes they can see or hear ということだから、確かに亡霊や幽霊ではない。
 ラフカディオ・ハーンがこの語を使うときも、何かこの世に生きている人間とは違った、しかしそれ固有の生々しい実在性をもった存在の意味で使われている。新渡戸は『武士道』の中で何度かハーンに言及しており、その著作を読んでいたことは間違いない。それに影響されたということではないと思うが、両者の ghost についての感じ方には近似したところがある。
 だからといって、ここでの新渡戸の使い方に私が共感を覚えているということではない。むしろ逆である。何かついていけないもの、もっと言えば、何か嫌なものを感じるのをどうすることもできない。
 近頃というか、特に2011年の東日本大震災以降に目立ってきたように思うのだが、霊性ということをやたらに強調する人たちがいて、それらの人たちの言説や書物が結構注目されていたりする。それもとても嫌なのである。言っておくが、僻みではない。見える人には見えるとか、聞こえる人には聞こえるとか、そういう話で自己の確信を正当化し、そういったものを失ってしまったのが現代人の不幸なのだ、という類の話が、私には、精神的に何か「不健康」に思えて、とても嫌なのである。きっとそういう人たちは、私に向かって、そういうお前が不健康なんだよ、と切って捨てるように言うだろうけれど。
 『武士道』を今年の修士演習の課題図書に自分で選んで置きながら、こんなことを言うのは本当に学生たちに申し訳ないと思うのだが、今回、真剣に最初から最後まで繰り返し読んでみて、私個人の偽らざる感想を一言でまとめるならば、「げんなり」である。
 いったいなんでこの本は近頃こんなに「人気」があるのだろうか。上掲の現代語訳のうち、山本博文訳が2010年、大久保訳が2015年、山本史郎訳が今年刊行である。この十年ほどでこれ以外にも現代語訳が刊行されている。そんなに売れるのだろうか。読んだ人は何を感ずるのだろうか。
 かといって、『武士道』を縁遠い異国の昔話のようにしか読めない現代の若者たちに共感しているのではない。そういう彼らには、この世界的ベストセラーに対する違和感がどこから来るのか、突き詰めて考えてほしいとは思う。
 他人事ではない。きわめて確からしいことは、「何か嫌なんだよなあ、こういうの」程度の考えしか持てない私が、老境に至ってなお倫理的な迷子ちゃんだという情けない現実を生きているということである。