内的自己対話-川の畔のささめごと

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神の正義の最後的勝利への強靱な楽観主義に貫かれた神的歴史哲学

2021-11-06 11:51:40 | 読游摘録

 『ヨハネの黙示録』(講談社学術文庫)の小河陽による解説の第五節「執筆意図」から摘録する。

 最初の三章が本書に初めから含まれていたとするならば、本書が特別な必要のあった特定グループのキリスト教徒に向けて書かれたことは明らかである。著者は彼の使信が教会の礼拝で朗読されることを意図している。
 七つの教会に宛てられた手紙はこれらの教会の内部状況をうかがわせる。真の預言者として、著者は彼が教会の主から受け取り、教会員に伝えなければならない叱責や勧告を本書に記録する。全般的に、その背景になっている教会の精神的な弛緩・類廃への傾向が明らかである。ある教会は不道徳な環境世界の圧力に屈しつつある。ある教会は偽教師によって著者の目から見れば誤った道に踏み込んでいる。かくして、多くの教会が悔い改めへの呼び掛けを必要としているのである。しかし、それらの叱責や勧告は非難や懲罰を意図したものではなくて、むしろ励ましである。それは各々の手紙が、主の約束の言葉と、聞く備えのある者はそうするようにと言う勧めの句とで締め括られることが明瞭に示している。
 教会内部の精神的衰微は、教会と国家の間の緊張と対立がますます増大しつつあるという外部状況によってもたらされたものである。ローマ帝国の国家祭儀と支配者崇拝は、帝国内の雑多な民族からなる住民の間に政治的な忠誠心を植え付けるための政治的手段の―つであった。そのために、神殿や祭壇が帝国内の各地に建てられ、またそれらの宗教儀式を司る祭司たちが任命された。政治的手段であったからこそ、効率的な行政組織と司法権力とをもって、それらの国家祭儀に参加することが奨励され、必要によっては強制されさえしたのである。時と共に、死後に神格化された皇帝の崇拝は現存の為政者であった皇帝を生ける神として崇拝する祭儀へと進展し、強制力を強めることになった。

 余談になるが、この箇所を読んで、私は国家神道の形成過程を思い合わせざるを得なかった。

 ユダヤ人だけは民族固有の宗教の特殊性が公に認められて、これへ参加する市民としての義務を免除されていた。初期にはキリスト教はこの公認の宗教であるユダヤ教の陰に隠れて、国家祭儀への不参加を隠すことができたろう。しかし、一世紀末には、キリスト教はもはやユダヤ教内の一分派ではなく、独立した宗教とみなされるまでに伸展していたし、大多数のキリスト教徒が非ユダヤ人であったから、彼らもまた、国家の神格化である皇帝を礼拝する祭儀への参加が彼らの政治的な忠誠心の証しとして求められた。それに対する彼らの抵抗と拒否は弾圧と迫害、また場合によっては殉教の死を招くことになる。彼らの中には妥協を選び、国家祭儀に参加した者もあったろう。しかし、信仰かあるいは迫害かの選択に直面させられたとき、教会を去った者も少なくなかったろう。

 ここまでは、執筆意図というよりも、著者にこの黙示録を執筆させるにいたった歴史的背景と時代状況の説明であった。

 この状況が黙示録を生み出すきっかけとなった。ここで手をこまねいて見ていれば、予期される迫害の強化はひ弱い信徒の間にますます背教者を続出させ、遂には教会を雲散霧消に消滅させてしまうかもしれない。このような危機の只中で、本書の著者は筆をとった。礼拝するのは皇帝か、あるいは神か、完全なる忠誠心は皇帝に示されるべきかそれとも神に対してか、著者は信徒に対して、その二者択一を先鋭化させた形で突き付ける。彼にとって、その選択は永遠の滅びか、それとも永遠の救いかの間の選択であった。それと同時に、皇帝とその悪魔的な力はかならずや滅び、神の支配が貫徹するという確信に基づく終末の一大預言を与えるのである。現在ローマ帝国がいかに繁栄し強大であるように見えようとも、神の最後的な勝利は確実である。しかし、その勝利は敵対する勢力が地上を蹂躙し、多数の信徒を殉教の死に追いやった後にしかやって来ない。まさに、この恐ろしい患難と誘惑とが襲いかかろうとしている信徒に向かって著者は、ローマの支配の象徴である獣とバビロンの、それゆえサタンそれ自身の、最後的敗北と滅亡の一大ドラマを描き出して見せることで、希望の使信を彼らに伝えようとするのである。それによって、歴史を支配する神に対する信仰と希望とに彼らを踏みとどまらせようとする。著者の使信は神の正義の最後的勝利への強靱な楽観主義に貫かれた神的歴史哲学であり、本書を貫くテーマは悪魔的な諸力ヘの復讐ではなくて、神の民に示される神の恵みの摂理である。

 であるとすれば、ヨハネの黙示録を世界の終わりの預言の書としてのみ読むのは、本来の執筆意図から逸脱した貧困な解釈だということになる。