今、この記事を書いている机上に『ヨハネの黙示録』の仏訳 L’Apocalypse de Jean, traduite et commentée par Jean-Yves Leloup, Albin Michel, coll. « Espaces libres », 2020 (1re édition 2011) がある。先日他の一書をネットで注文したとき目に止まり、その数日後に購入した。
日本語では、世界の終末を予告するかのごとき大災害や大惨事が起こったときに、見る者聞く者に言葉を失わせるようなその惨憺たる光景を形容するときに、「黙示録的」という言葉はあまり使われないと思うが、フランス語では、そのようなとき apocalyptique という形容詞がしばしば使われる。
広くは黙示文学的なもの一般を指す形容詞だが、現代世界の終末論的光景について使われるときには、特に新約聖書の「ヨハネの黙示録」が念頭に置かれている。あるいは、「ヨハネの黙示録」の中の具体的なイメージとは直接的な関係なしに、「世界の終末を預言するかのような」という意味で使われる。
しかし、ギリシア語の apokalupsis は「啓示」を意味し、動詞 apokaluptein の派生語である。この動詞は、具体的には、「覆いを取り除く」ことを意味する。だからもともとは、世界を終わらせるような大惨事を預言するという限定された意味ではなかった。「ヨハネの黙示録」のあまりにも強烈なイメージが原語本来の意味を覆い隠してしまい、そこからさらに言葉だけが独り歩きして、ひたすら否定的な意味をもつ言葉として一般に使用されるようになった。
上掲の仏訳の序論で、訳者は、「ヨハネの黙示録」には、極悪なもの(diabolique)の啓示と象徴的なもの(symbolique)の啓示という二つの啓示があることに読者の注意を促している。前者 diabolos は、「間に割って入るもの」「二つに引き裂くもの」「消尽させるもの」を意味し、後者 symbolon は、「何かと共にあるもの」「共存するもの」を意味する。
ところが、現代のメディアでは、前者の意味ばかりが強調され、後者の意味は半ば忘れられている。世界の終末を告げるかのような出来事の極悪な側面ばかりを強調するメディアは、その極悪な出来事がそれと共に啓示しようとしている「賢者の石」(pierre philosophale)について語ることは稀である。しかし、隠されるという仕方でしかそこにありえないものを啓示するのもまた黙示なのであり、黙示録のメッセージを聴き取るためには、その象徴形式の黙示の読解を必要とする。