内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「対馬の人」の「愧死」について

2021-11-24 14:23:24 | 読游摘録

 修士の学生の一人に修論のテーマとして、近世日本の日朝外交史に対馬藩が果たした役割を勧めたのは、もう三年近く前のことになる。勧められた本人自身当初からこのテーマに大変興味を持ち、以来よく研究を続け、来年春には修論提出、遅くとも六月中には口頭試問を終えられそうなところまで来ている。
 このテーマを勧めたのは、私自身それにとても関心があるからだった。古代から近代までつねに朝鮮半島との最も近い接点であり、地政学的には大陸に対して国家の最前線に位置し、地理的には日本列島の周縁に位置し、島の地表のほぼ九割は山々からなるというきわめて特徴的な自然環境は、対馬をとても魅力的な学際的研究対象にしている。
 指導教官とはいえ、こちらも対馬についてはまったくの素人であったから、学生と一緒に勉強してきた。それどころか学生から教えられることも少なからずあった。対馬に触れている本が自ずと目に入るようにもなった。宮本常一の『忘れられた日本人』はその中でも大切な一冊だ。対馬研究は宮本自身にとっても最重要な研究テーマの一つだった。
 研究書ではないが、司馬遼太郎の『街道をゆく 13 壱岐・対馬の道』(初出『週刊朝日』1978年2月3日号~8月25日号、 単行本 朝日新聞社刊 1981年)も、私にとってはとても印象深い一冊だ。冒頭の文章「対馬の人」は、司馬が復員後に記者として最初に勤めた京都の小さな新興紙で同僚として出会った対馬出身の友人Aの姿を雄勁簡潔な筆致で活写している。その中で言及されているAの言葉は、一度読んだら忘れられないほど深く私の心に刻印された。司馬はその友人Aをこう評している。

ともかくAの壮んな――しかし内容不明の――志からすれば新聞記者は陋巷に窮死すべきものであった。いやしくも市民的幸福を望む者は愧死すべきだということが、牢固としてあった。かつて明治初年、新聞記者が同時に自由民権運動の闘志であったように、そのころの残映が対馬あたりに残っていたのか、それとも釜山日報の隅にそういう老記者がいて若いころのかれの心を悲壮な色に染め上げてしまったのか、そのあたりのことはよくわからない。

 引用文中に出てくる「愧死」とは、『日本国語大辞典』によれば、「恥ずかしさの余り死ぬこと。また、死ぬほど恥ずかしく思うこと。」厚顔無恥な政治家たちが大手を振って歩き、彼らを忖度することと自己検閲に忙しいマスメディアが幅を利かせる現代日本社会でこの語がほぼ死語と化しているのは偶然ではないだろう。