昨日の記事の最後の段落で言及されている、『ヨハネの黙示録』(講談社学術文庫)の解説者が言うところのヨハネの黙示録の「実存的な意味」という表現に触発されての感想を一言だけ述べる。
神なく救済なき世界に黙示文学は成立し得ない。最終的な救済信仰を前提としないかぎり、ユダヤ・キリスト教的な意味での黙示録はありえない。ユダヤ・キリスト教世界の外での終末論的信仰や言説に「黙示録(的)」という語を適用することは、拡大解釈としてはありえても、厳密な意味では不適切である。
黙示録が現実的に有意味でありうるのは特定の信仰を共有している人たちの間だけであり、それを共有しない他の人々にとっては謎解き物語以上のものではない。たとえそれがどれほど魅惑的なイメージに満ちていて、読む者の想像力を刺激して止まないとしても。
しかし、それでもなお、黙示文学から現実を象徴的に解釈する方法を学ぶことはできるように思う。あるいは、世界そのものを黙示録的に読むための方法をそこから学ぶことはできると言ったほうがいいかも知れない。なぜなら、私たちを引き裂く極悪なものの啓示としての現実を象徴的なものの啓示(アポカリプス)として繰り返し読み直し、現実の時間(クロノス)の終末の間近に迫った「時」(カイロス)を探し続けることが現代に残されたわずかな救済の途の一つなのではないかと思うからである。
世界の終末の到来、そしてその後に最後の望みを託すのではなく、何かを最終的に見出すことによって救済されることを期待するのでもなく、身近に迫っているカイロスを待ちつつ探し続けること、それをけっしてやめないこと、まがいものをそれと見誤らないようにつねに注意深くあること、このような恒常的な待機の姿勢を保持することこそが救済なき世界に生きる私たちに残された唯一の救済の可能性なのではないのだろうか。