内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

世界を違ったまなざしで見る方法として日本語を自覚的に運用する

2021-11-21 21:39:18 | 哲学

 木曜日の発表の準備は、思っていたより早く、今日の昼過ぎに済んだ。というよりも、済まさざるを得なかった。発表しようと思っていたことの半分で時間切れになることがわかったからである。昨日の記事の末尾で言及した「生物の世界の観察から導き出されたユニークな生命観」とは、今西錦司のそれのことなのだが、たとえちょっと触れるだけにしても時間が足りない。それならいっそ一切言及しないほうがいい。別の機会に譲ることにする。同じく昨日の記事で言及した「日本語について日本語によって固有の術語を用いて表現された言語思想」とは、時枝誠記の言語過程説のことなのだが、こちらだけで三十分は優にかかる。多分、足りないくらいだ。今回のシンポジウムの主旨には時枝の話だけでも十分に叶っていると思う。
 というわけで、今日の午後は書誌的な確認作業に充てた。その書誌的な情報は発表には盛り込まない。当日、万が一質問を受けたら答えるための備えである。発表では、時枝の主体概念については『国語学言論』から多く引用し、そのためのスライドも出来上がっているが、主語ついての時枝の考えに関しては、『日本文法 口語篇・文語篇』(講談社学術文庫 2020年)からの引用もPDFで用意した。例えば、口語篇の次の箇所(第三章 文論 六 文の成分と格)には時枝の考えが簡潔明瞭に示されている。

 国語に於いては、主語は述語に対立するものではなくて、述語の中から抽出されるものであるといふことである。国語の特性として、主語の省略といふことが云はれるが、[…]主語は述語の中に含まれたものとして表現されてゐると考へる方が適切である。必要に応じて、述語の中から主語を抽出して表現するのである。それは述語の表現を、更に詳細に、更に的確にする意図から生まれたものと見るべきである。主語を述語に含めるところにも、それなくしても自明である場合、主語を取出すことが憚られる場合等があるためである。
 述語に対する主語の関係を以上のやうに見て来るならば、主語は、後に述べる述語の連用修飾語とは本質的に相違がないものであることが気付かれるであらう。

 この箇所を読めば、昨日の記事で引用したニーチェの「違ったまなざし」が、日本語の運用において自ずと実現されていることがわかるだろう。そのことを自覚へともたらし、運用を方法的に展開し、「世界の見方を学び直すこと rapprendre à voir le monde」(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』)、それが哲学の仕事である。