今日明日の記事では、『ヨハネの黙示録』(講談社学術文庫)の小河陽による解説の第六節「文学的・思想的特徴」から摘録する。
まず、ヨハネの黙示録が、ユダヤ教的黙示と同じ文学類型に属しながら、ユダヤ教黙示と決定的に異なる点が以下のように説明されている。
一連の幻視的な像によって、近い未来に起こるはずの世界の終末についての事柄が描写される本書は、神話的素材や秘密に満ちた数、また天的世界の事柄についての啓示の手段としての幻や顕現など、ユダヤ教黙示と同じ文学類型に属する作品である。しかし、ここに見られる黙示的ドラマはユダヤ教的終末の黙示の完全なキリスト教化である。本書の黙示的歴史観はイエスの歴史的出現に基礎づけを持っている。ヨハネにとっては、初代キリスト教徒が自ら体験したこのキリストの出来事が歴史を支配する神に対する信頼の基礎なのである。イエスが中心に立つ救済史の思想が彼の歴史哲学の根底にあり、これが救いの確信を基調とすることを可能としている。
ユダヤ教黙示は、神の救いの力の明らかな証しを見出すためには、イスラエルの偉大な過去に遡り、はるか昔の族長の神に頼らざるを得ず、預言の形をとりながらも、実際には過去の歴史についての概観を記している。それに対して、「幻視者ヨハネにとっては、終末的希望の根拠はイエスにおける神の救済行為とイエスの救済の業の完成への信仰であり、徹頭徹尾終末論的に規定されている。」
本書は、旧約聖書の伝統的テーマや表象を取り上げつつも、それらを自分が構想した時代史に適用して解釈している。しかし、「それらの表象は決して時代史的な関連だけでは汲み尽くされないそれ独自の意味も持っている。それゆえ著者は、伝統的なテーマや表象に表現された普遍的また超越的な意味を踏まえて、彼自身の歴史を解釈したと言える。」
本書の叙述に見いだされる具体的詳細はしばしば象徴的な意味を持っており、それ自体が教えとなっている。本書において、著者が神から教えられたと思った事柄が、象徴に翻訳され、象徴的事物・色・数のたたみかけによって記されている。
しかし、著者は一貫性のある思想や自分の想像的幻を示そうとしたのではない。それゆえ、矛盾や一貫性のなさに気をとられずに、それらの象徴を普通の言葉に翻訳する必要がある。このような手続きを経なければ、黙示録で語られている事柄を理解することは不可能である。