内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

鴎外とサフラン、そしてモンテーニュを少々

2023-04-11 17:21:09 | 読游摘録

 鴎外の名随筆の一つに「サフラン」がある。「名を聞いて人を知らぬと云うことが随分ある。人ばかりではない。すべての物にある。」と始まるこのわずか数頁の随筆は、しかし、物と名の関係、名前と存在の関係、物と人の関係などについての鋭い観察と深い省察とに裏打ちされている。それが決して表面にあからさまに言い表されることはなく、表面上はもっぱらサフランという草と鴎外との「歴史」である。
 物について書物から得る知識ばかりで、「名を知って物を知らぬ」ままでは、それらの知識は知識として不完全であるどころか、実際の役にはほとんど立たない。そんな無用な知識を塵が積もるように記憶の中に蓄積させてきただけ、それが私の人生なのかもしれない。サフランについては貧弱な知識しかなくても普段の生活に困ることはないが、全体あまりにも物を知らなすぎる、と自分でも思う。
 鴎外は、「宇宙の間で、これまでサフランはサフランの生存をしていた。私は私の生存をしていた。これからも、サフランはサフランの生存をして行くであろう。私は私の生存をして行くであろう。」とこの随筆を結ぶ。確かに、多くの物とは「たまたま行摩の袖が触れ」る程度の関係で終わるのが普通であろう。しかし、それでは済まない物もある。
 もっぱら書物から得ただけで実践には役立たない知識を形容するフランス語は livresque である。これを最初に使ったのはモンテーニュである。もちろん軽蔑語としてである。当時、イタリア語の -esco に倣って接尾辞 -esque を付けて形容詞を作るのが流行っていたらしい。当時としては新造語だったわけである。『エセー』第一巻第二十五章「子供たちの教育について」の中にこの語がでてくる。

Sçavoir par cœur n’est pas sçavoir : c’est tenir ce qu’on a donné en garde à sa memoire. Ce qu’on sçait droittement, on en dispose, sans regarder au patron, sans tourner les yeux vers son livre. Facheuse suffisance, qu’une suffisance purement livresque ! (ボルドー本)

Savoir par cœur n’est pas savoir, c’est tenir ce qu’on a donné en garde à sa mémoire. Ce qu’on sait adroitement, on en dispose, sans regarder au modèle, sans tourner les yeux vers son livre. Fâcheuse suffisance, qu’une suffisance purement livresque ! (現代フランス語表記)

記憶しておぼえているのは、知っていることにはなりません。それは、もらったものを、記憶のなかに保存してあるにすぎません。正しく知っていることならば、お手本を見なくても、書物に目をやらなくても、自由自在に使いこなせます。もっぱら書物にたよった知識力とは、なんとなさけない知識力であることか!(宮川志朗訳)

 まあそうですよね、と納得せざるをえない。が、モンテーニュは書物そのものを否定しているわけではない。彼自身、大の読書家であり、『エセー』はギリシア・ラテンの古典の引用に満ちている。問題は、書物から得た知識をどう生活の中で使いこなすか、ということだろう。