熟練のプロであれ、駆け出しの新人であれ、ずぶの素人であれ、原文の解釈なしに翻訳はできない。端的に言えば、一つの翻訳は一つの解釈である。いずれの解釈が正解、あるいはいずれが他に優ると決定できる場合もあるが、できない場合もある。後者の場合、その理由はさまざまあるが、主に原文自体が孕んでいる非決定性、両義性、曖昧性にある。
当該の文章だけでは複数可能な解釈のうちのいずれが正しいか或いはより妥当か決定できない場合でも、その文章が置かれた文脈というより高次のレベルで解決できることはある。あるいは、著者のその他の著作に示された考えを参照することによって判断を下せることもある。あるいは、その文章が書かれた歴史的・社会的・文化的文脈にまで視野を広げることで、重層的かつ漸近的に正解あるいは相対的に良い解に接近することができる場合もある。
以下に挙げる一例は、授業で実際に取り上げた一文である。これを仏訳するとき、どうしても二つの解釈のうちのどちらか一つを選ばなくてはならない。まず原文を示す。
福澤の考えでは、それ[=日本の独立]は あくまでも「自由の気風」によって、人々それぞれの「独一個の気象」すなわち個人の独立の意識が育つことで確立する、「国民」どうしの水平な紐帯の意識に基づいた、一国の独立でなくてはならない。
問題は、「確立する」がどの語にかかっているか、である。直後に読点が打ってあるので、「国民」にはかからないことはわかる。残る可能性は二つある。一つは「水平な紐帯の意識」であり、もう一つは「一国の独立」である。
第一の解釈は、個人の独立の意識は「国民」どうしの水平な紐帯の意識の確立の前提であり、後者が一国の独立の基礎である、と捉える。一国の独立を、個人の独立の意識に支えられた国民の水平な紐帯の意識に基礎づける、いわば「二層構造」説である。
第二の解釈は、個人の独立の意識と「国民」の水平な紐帯の意識とを一国の独立の二つの条件とする、いわば「並立」説である。
これら二つのうちのどちらの解釈を採るかで仏訳は次のように異なる。前者が第一解釈に対応し、後者が第二解釈に対応する。
Selon la pensée de Fukuzawa, cette indépendance devra être celle d’un pays, fondée sur la conscience du lien horizontal entre les membres d’un État, et celle-ci ne s’établira qu’après, par l’esprit de liberté, le développement de l’individualité, c’est-à-dire de la conscience de l’indépendance de chaque individu.
Selon la pensée de Fukuzawa, cette indépendance devra être celle d’un pays, qui ne sera établie qu’avec, par l’esprit de liberté, le développement de l’individualité, c’est-à-dire celui de la conscience de l’indépendance de chaque individu, et (aussi) fondée sur la conscience du lien horizontal entre les membres d’un État.
前者の解釈には未解決の問題が残されている。個人の独立の意識の発展は国民の水平な紐帯の意識を必然的に生じさせると著者は考えているのか、あるいは、前者は後者の必要条件ではあっても十分条件ではなく、前者から出発して後者の確立へと至るためにはさらに平等意識や民主主義等を条件として必要とするという考えがこの文章に前提されているのか、という問題である。しかし、翻訳としては、この不確定性はそのままにしておくのが妥当であろう。
後者の解釈によれば、この文は、個人の独立の意識と国民の水平な紐帯の意識との関係はここでは問われておらず、一国の独立にはこれら二条件が必要だと言っているだけだということになる。したがって、後者の翻訳が穏当ということになる。この場合、個人の独立の意識と国民の水平な紐帯の意識とは、それぞれ独立に成立しうるのか、あるいは、後者は前者なしでも成立しうるのかという問いが残る。しかし、これらの問題への解答は、この文章の翻訳という問題の枠組みを超えている。
これは翻訳の問題としては些細な一例に過ぎないが、それを通じて向き合うことになる政治思想の問題はけっして小さくはない。