イザベラ・バードの『イザベラ・バードの日本紀行』(時岡敬子訳、上・下巻、講談社学術文庫、2008年。原本 Unbeaten Tracks in Japan: An Account of Travels on Horseback in the Interior, 2 vols. New York: G. P. Putnam’s Sons, 1880 には、別訳として平凡社東洋文庫版『日本奥地紀行』旧・新訳がある)を授業で取り上げたのは、昨日の記事で言及した石川榮吉『欧米人の見た開国期日本』の中に彼女の観察記録も引用されているからだけでなく、彼女の『紀行』そのものが大変興味深い記録に満ちているからということもある。それに、この『紀行』に基づいた佐々大河の漫画『ふしぎの国のバード』(KADOKAWA、2015‐、現在第十巻まで刊行されている)がなかなかよくできていて、その仏訳版 Isabella Bird. Femme exploratrice, Ki-oon, coll. « kizuna »(日本語版とほぼ同じ造本で、現在第9巻まで刊行されている)があり、学生たちにもそれだけ興味をもってもらいやすいということもあった。
石川書には十箇所ほどバードの観察記録に言及している箇所がある。授業で取り上げたのは、彼女の日本の子供たちについての観察と印象である。これについては、渡辺京二も『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー、2005年)も第十章「子どもの楽園」で引用している。
両書で言及されている青森県碇ヶ関の子供たちの様子を上掲の時岡訳で引用しよう。
私は日本の子供たちが大好きです。赤ちゃんの泣き声はまだ一度も耳にしたことがありませんし、うるさい子供や聞き分けのない子供はひとりも見たことがありません。子供の孝行心は日本の美徳の筆頭で、無条件服従は何世紀もつづいてきた習慣なのです。英国の母親たちのやる、脅したりおだてたりして子供たちにいやいや言うことを聞かせる方法は、ここにはないようです。わたしは子供たちが遊びのなかで自立するよう仕込まれるやり方に感心しています。家庭教育の一部にさまざまなゲームのルールを覚えるというのがあり、このルールは絶対で、疑問が起きた場合は、口論でゲームを中断するのではなく、年長の子供が命令をしてことを決着させます。子供たちは子供たちだけで遊び、なにかおとなの手をわずらわせるというようなことはありません。わたしはふだんお菓子を持参し、子供たちにやりますが、ひとりとして先に父親または母親から許しを得ずに受け取る子供はいません。許しを得ると、子供たちはにっこり笑って深々とお辞儀をし、その場にいた仲間に手渡してからようやく自分の口に運びます。
I am very fond of Japanese children. I have never yet heard a baby cry, and I have never seen a child troublesome or disobedient. Filial piety is the leading virtue in Japan, and unquestioning obedience is the habit of centuries. The arts and threats by which English mothers cajole or frighten children into unwilling obedience appear unknown. I admire the way in which children are taught to be independent in their amusements. Part of the home education is the learning of the rules of the different games, which are absolute, and when there is a doubt, instead of a quarrelsome suspension of the game, the fiat of a senior child decides the matter. They play by themselves, and don’t bother adults at every turn. I usually carry sweeties with me, and give them to the children, but not one has ever received them without first obtaining permission from the father or mother. When that is gained they smile and bow profoundly, and hand the sweeties to those present before eating any themselves.
自分の子供たちに対する大人たちの態度についてやはり両書に引かれているは、バードの日光での次のような見聞である。こちらも時岡訳で引こう。
これほど自分の子供たちをかわいがる人々を見たことはありません。だっこやおんぶをしたり、手をつないで歩いたり、ゲームをやっているのを眺めたり、いっしょにやったり、しょっちゅうおもちゃを与えたり、遠足やお祭りに連れていったり。子供たちがいなくては気がすまず、また他人の子供に対してもそれ相応にかわいがり、世話を焼きます。父親も母親も子供を自慢にしています。毎朝六時に一二人から一四人の男が低い塀に腰をかけ、二歳以下の子供を抱いてあやしたり遊んでやったりして、その子の発育のよさと利口さを見せびらかしているのを見るのはとても愉快です。ようすから判断すると、この朝の集いの主な話題は子供のことのようです。
I never saw people take so much delight in their offspring, carrying them about, or holding their hands in walking, watching and entering into their games, supplying them constantly with new toys, taking them to picnics and festivals, never being content to be without them, and treating other people's children also with a suitable measure of affection and attention. Both fathers and mothers take a pride in their children. It is most amusing about six every morning to see twelve or fourteen men sitting on a low wall, each with a child under two years in his arms, fondling and playing with it, and showing off its physique and intelligence. To judge from appearances, the children form the chief topic at this morning gathering.
このような見聞を読んでいると、バードが見た明治十一年の日本は、現代の日本人である私たちにとっても、「異文化」と言ってよいのではないかとの感想を私は持つ。そして、その「異文化」はもはや理解の対象にさえならず、決定的に失われてしまったのではないだろうかと自問せざるを得ない。これは懐古趣味ではない。現代日本への憂慮である。