内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『エセー』の日本語訳について一言

2023-04-27 15:45:59 | 読游摘録

 「寛容再論」は小休止。今日は『エセー』の日本語訳について一言。
 モンテーニュの『エセー』を日本語に訳すのは、老生などの想像を絶する途方もなく困難な仕事であることは、現代フランス語表記に変換された原文でさえ、それを読むたびごとにひしひしと感じられる。フランス人にとってさえ、『エセー』を十六世紀のフランス語原文で読むのは容易なことではなく、そのいくつかの章句は高校などで読んだことがあっても、全巻読み通した人となると多くはないであろう。現代フランス語に訳された版さえいくつかある(私も三冊所有している)が、それだってそう簡単には読み通せないと思う。
 現代日本語としてこなれた訳を成し遂げてくださった訳者たちには畏敬と感謝の念を懐かずにはいられない。「あれっ、ここ、訳がおかしくないかな」という箇所に出くわしても、そもそも間違いのない翻訳などあり得ないと言ってもいいのだし、ましてや『エセー』の翻訳なのだから、訳者を責める気持ちにはとてもなれない。もしかしたら、最終段階で一言抜けてしまって、それが校正者の眼も逃れてしまったということもありうることだろう。
 そんな箇所を白水社版宮下志朗訳の中に一つ見つけた。第一巻第三四章「われわれの行政の欠点について」という短章のなかにセバスチャン・カステリヨンに言及している箇所があり、そこに原文で読んでもちょっとわかりにくい長い一文が出てくる。現代表記に改めた本文(Pochothèque 版)を引く。

Le monde n’est pas si généralement corrompu, que je ne sache tel homme, qui souhaiterait de bien grande affection, que les moyens que les siens lui ont mis en main, se pussent employer tant qu’il plaira à la fortune qu’il en jouisse, à mettre à l’abri de la nécessité, les personnages rares et remarquables en quelque espèce de valeur, que le malheur combat quelquefois jusqu’à l’extrémité : et qui les mettraient pour le moins en tel état, qu’il ne tiendrait qu’à faute de bon discours, s’ils n’étaient pas contents.

 白水社版宮下志朗訳はこうなっている。

世の中は、どこもかしこも堕落しているわけではなくて、身内が自分の手の内に残してくれた財産を、運命の女神のお気に召すかぎりは、ある種の希有で著しい才能を有しながらも、ときとして、不運によって貧窮のどん底にまで追いやられてしまった人間を、その窮状から救ってやりたいとか、あるいは、それでも満足しないなら、そうした連中には判断力が欠けているんだと思える程度にまでは、せめて、もてなしてやりたいなどと、熱烈に願っている人だって存在するのではないだろうか。

 部分ごとに見れば、ちゃんと訳されているのだが、「身内が自分の手の内に残してくれた財産を」と「運命の女神のお気に召すかぎりは」がどこに掛かるのかがわからない。この文の意味をざっくり言えば、世の中はすっかり堕落しきっているわけではなくて、状況が許せば、自分に遺された財産を窮状に陥っている人を救うために善用したいと思っている人だっているのではないか、ということである。
 例えば、「身内が自分の手に残してくれた財産を、運命の女神のお気に召すかぎりにおいて使うことによって」と語順を入れ替え、言葉を少し補えば、原文によりよく対応するし、日本語としても通じるようになる。想像するに、「運命の女神のお気に召すかぎりは」と挿入したことで、「財産を」のあとに付け加える一語が忘れられてしまったか、いずれかの段階で誤って削除されてしまったのではないだろうか。
 原文自体がややこしく、注を付けてわかりやすく言い換えている版もあるくらいだから、もっと短い文に分けてしまえばわかりやすくはなるだろう。だが、そうしては原文のニュアンスが伝わりにくくなってしまう。訳者の苦労が偲ばれるところである。