一昨日、オフィスアワーのために教員室で待機しているとき、現代文学・サブカルチャー及び翻訳技術担当の同僚が入ってきた。それは何ら驚くべきことではない。情けないほど貧しいフランス国立大学には、専任教員であっても、原則、個別の研究室はない。
創立五百年を誇り、ノーベル賞学者を十九人輩出しているストラスブール大学の我が愛しの日本学科の専任教員五人にはたった一つの部屋しかない。しかも、そこには机が四つしか置けない。つまり、全員同時に教員室でそれぞれの場所を占めることができない。だから、オフィスアワーもそれぞれ異なった曜日と時間を選ぶ。
以前、別の同僚から、そうしているとなかなか顔を合わせる機会がないし、会議のためにわざわざ集まるほどでもないが、同僚間で随時共有しておいたほうがいい情報もあるから、オフィスアワーの一部を全員同じ時間帯にしてはどうかという提案があった。
誰も異存はなかったので試してみた。ダメであった。その時間帯に複数の学生たちが来てしまい、各教員それぞれに対応せざるを得ず、狭い一室のなか他の面談の話が丸聞こえであるから、面談内容によっては事実上面談不可能であった。教員間の情報交換も無理であった。
これはコロナ禍以前の話である。コロナ禍以降、一つポジティブな変化だと私が思っていることは、必要に応じで臨機応変にオンライン会議や面談に切り替えることができることである。わざわざ会議のためにキャンパスまで移動する必要もない。それぞれ自宅にいて会議ができ、会議時間だけの拘束で済む。学生たちもオンライン面談に異存はないことが多い。要は、使い分けだ。
さて、前置きが長くなった。教員室に一緒にいるとなれば、当然、意見交換や雑談が始まる。オフィスアワーの直後に授業がある私は、その授業で取り上げる是枝裕和の小説『万引き家族』(監督自身が映画作成後小説化したもの)の仏訳の困った(というか、個人的には、「ふざけんじゃねーよ」レベルの)誤訳の話をその同僚にした。私の話を聞いて、彼も呆れていたが、彼が言うには、自分が翻訳の仕事に取り組んでいた十年前に比べても、締め切りまでの時間がどんどん短くなっていて、翻訳者も入念な確認をしている時間がないこともそういう初歩的な誤訳を発生させる要因の一つだろうということだった。
私も僅かだが過去に翻訳の経験がある。そのときつくづく思ったことは、良心的に翻訳しようと思ったら、下調べや事実確認にえらく時間がかかり、その労力は並大抵ではなく、要するに、全然割に合わない、ということであった。
それでも学術的にはやるべき仕事はある。それは認める。金のためじゃないと労苦を惜しまない有徳な翻訳者もいる。有能な方々は厳しいスケジュールのなかでちゃんと優れた仕事をなさっている。たとえ採算的には厳しくても、これは世に出されるべき翻訳だと、万難を排して出版に尽力している良心的な出版社があることも知っている。
でも、どのみち、無能な私には無理な話だ。で、翻訳は金輪際しないと決めた。作成した本人が「欠陥商品」であるとわかっているものを売りつけるのは商業倫理に反する。犯罪に問われないだけ、余計に質が悪い。だから、こんなにも粗悪な翻訳が世に出回る。売れりゃ、いいってか。
翻訳家を目指す学生は毎年いる。彼女ら彼らにまず教えるべきことは何か。翻訳テクニックか。違う。「翻訳倫理」だ。