大森荘蔵の「虚想の公認を求めて」の第五節「他我」に、言語の私秘性を拒否しその公共性を信じる哲学者の見方の一例として、「悲しい」という言葉がどのよう習得されるかについて実に奇妙な説が提示されている。学生たちの関心が高かった箇所の一つである。
学生たちはこの奇妙な説に納得したわけではもちろんない。この議論はどこか間違っていると思いながら、さて、では、自分自身はどう習得したのだろうか、と考え始めたのだ。彼らはフランス人だから、「悲しい」ではなく、 « triste » という言葉の習得ということになるが。
確かに、言語の習得過程というのは興味尽きない問題である。特に最初に習得する母語の習得過程は、誰もがそれを経験していることなのに、それについて考え始めるとわからなくなる。アウグスティヌスを文字って言えば、「ではいったい言語とは何でしょうか。だれも私にたずねないとき、私は知っています。たずねられて説明しようと思うと、知らないのです。」
私たちはいつ「悲しい」という言葉を習い覚え、正しく使えるようになったのだろうか。言葉としては、おそらく幼児期にすでに何度も聞いたことがあるだろう。しかし、例えば、三歳児が「悲しい」という言葉を使ってそのときの自分の感情を表現する場面というのは想像しにくい。大切にしていた人形が壊れてしまって、その子が涙を流しているとき、大人はその子がそのとき抱いている感情を「悲しみ」と呼び、「この子はいま悲しい」とか「この子はいま悲しんでいる」とか言うかもしれないが、当の子どもが「悲しい」と言っているわけではなく、ただ泣いているだけである。その子は「悲しい」という言葉をそれに相応しい場面・情況で使ったことは、まだない。
このような発達段階にあるとき、その子はたとえまだ「悲しい」という言葉は使い始めていなくても、その言葉によって指し示される感情はすでにそれとして経験していると考えるべきだろうか。だから、後日、「悲しい」という言葉を正しく使えるようになるのだと考えるべきだろうか。そして、この考え方を、「悲しい」にかぎらず感情を表現する語彙を幼児・小児が正しく使えるようになるのは、感情表現の語彙の習得以前に幼児・小児はその語彙に対応する諸感情のいくつかはすでに経験済みであるからだと一般化できるであろうか。
私にはどうもそう思えない。まず、いわば原初的な悲しみの経験があり、その経験は「悲しい」という形容詞に対応していることをあるとき学び、以後、悲しいことがあるたびに「悲しい」という言葉を適切に使えるようになるという経過を辿って「悲しい」という言葉が習得されるのではない、と思える。
まったく逆なのではないかと思う。どういうことか。「悲しい」という言葉を正しく使えたときにはじめて悲しみを悲しみとして知ったのだと思うのだ。この考えをもっと先鋭化すると、はじめて「悲しい」という言葉を発したそのとき、それまでは名がなかったある感情が「悲しみ」と成った、となる。
しかし、「悲しい」という言葉の自分の使い方が正しいかどうか、どうやって確かめるのか。それは何らかの外的基準に照らして判断されるべきことなのか。あるいは、他者からその使用の妥当性を認証してもらう必要があるのだろうか。
そうではない、と思う。そのような外的基準も他者からの認証も必要ない。ある言葉が単独で言葉となることはない。私がはじめて「悲しい」という単語を自己の感情表現として発した瞬間、そのときの感情が他の感情から差異化されて〈悲しみ〉となり、と同時に、「悲しい」という言葉が他の諸々の言葉との有機的な連関のなかで私の言語表現力に組み入れられたのだ。こう考えるほうが少なくとも私には自分の言語経験にそぐわしいと思われるのだが……。