毎年、修士一年後期の近現代日本思想史の演習で取り上げるテキストの選択には悩まされる。原則として仏訳のあるテキストは避ける。日本語としてあまりにも難しすぎるテキストも避ける。二時間の演習六回で読み終えられるようにできるだけ短いテキストを選ぶ。この最後の条件は、一つのテキストをまるごと読んだという達成感を学生たちが得られるようにするためで、特に大切にしている。が、それが選択を難しくもしている。
昨年暮に十ほどのテキストを候補に上げて、さんざん迷った挙げ句、大森荘蔵の「虚想の公認を求めて」(初出、岩波書店『思想』1975年4月号。翌年、『物と心』、東京大学出版会、1976年に所収。2015年、同書はちくま学芸文庫の一冊として刊行される)にした。文庫版で30頁ほどで、これなら全文読める。十年ほど前にパリのイナルコ(INALCO)で「現代思想」という講義を担当していたとき、毎年一回は大森荘蔵の紹介にあてていたのだが、概して学生たちの受けが良かったことも今回の選択の理由の一つであった。
この選択は「当たり」であった。これはイナルコでもそうだったのだが、日本語を二、三年勉強した学生たちにとっても、構文的にはさしたる困難もなく読めることが、哲学のテキストに対する先入観、拒否反応あるいは「恐れ」(それまで見たこともないような漢語やカタカナ言葉がやたらに出てきて、何を言っているのかさっぱりわからない文章が延々と続く、みたいな)を読みはじめてすぐに解除してくれるのだ。
もちろん、大森の奇妙な造語や言葉使いには戸惑わされることはあるが、日常の経験や身近な事例に即して大森が展開する(ときによっては執拗に繰り返す)議論の中にさしたる言語的障害を感じることなしに入っていけることが学生たちにとってまず一つの新鮮な学習経験になる。テキストを交代で音読させ、私が解説する。その解説を聴きながら、彼らが自分の頭で考え始めているのが授業中によくわかった。
今日が演習の最終回で、学生たちに短い発表をしてもらった。病欠一名を除く八名が発表した。その発表がどれも予想以上によい出来だった。発表テーマ選択の条件として、大森のテキストから一つだけ問題点を取り出し、それに関して大森が挙げているのとは別の例・経験・事象を選び、それに即して大森の虚想論を展開、応用、あるいは批判するように学生たちには伝えてあった。
学生たちが選んだテーマは、他者の顔の認識と虚想、言語による知覚の変容、痛みとその言語表現の関係、触覚と嗅覚おける虚想と視覚における虚想との不一致、騙し絵と奥行き知覚における虚想の働き、乳幼児の認識能力の発達過程における虚想の変容、知覚と虚想がそこにおいて働く環境の諸条件が虚想の変更訂正に及ぼす影響、一九七〇年代の行動主義批判というコンテキストのなかで提起された運動認識理論と虚想論との類比と対比。欠席した学生が選んだテーマは、虚想と独我論だったが、春休み明けの二週間後に発表してもらうことにした。
いずれの発表も、学生たちが大森のテキストから刺激を受けて自分で問題を考えようとしたことをよく示していた。とても日本学科の学生とは思えない(妄言多謝!)哲学的思考を展開してくれて、聴いている私にとっても大変示唆的な指摘や疑問がそれぞれに含まれていた。
学生たちにあらかじめ送るように言ってあったテーマと要旨を読んだ段階ですでに期待できる内容だったので、演習の締めくくりとして春休み明けに教室での筆記試験を課すという当初の予定を今朝になって急遽小論文提出に変更した。学生たちがそれぞれに掴んだ問題点をその考察の緒を示すだけの五分程度の発表一回で終わらせるのはもったいないと判断したからだ。だから、小論文には、口頭発表の内容をさらに展開させること、という条件を課した。この変更と条件について、学生たち全員、もちろん望むところと言わんばかりに同意してくれた。