内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

そもそもの人間の姿の刻印 ― 正岡子規『仰臥漫録』

2023-06-19 13:19:00 | 読游摘録

 日記をつけはじめるきっかけは人それぞれであろうし、その目的もさまざまであろう。その形態も多様であるし、今日のように紙以外の記録媒体が手軽に使えるようになってからは、さらに多様化している。
 私は2006年からフランス語でパソコン日記をつけているが、これはほとんど備忘録としてであり、感情的・内省的要素はきわめて乏しい。書いてから数年後に、その日何をしたか、ある個人的な出来事がいつのことだったかなど、思い出すのにときどき役に立つからつけているに過ぎない。
 だから、特に記すべきことがない日は、一言あるいは一行のみである。そんな日が大半である。他人に見られて困るようなことは書いていないが、読まれることはまったく想定していない。
 日記をつけることがその人の人生においてかけがえのない重みをもっている場合もある。ドナルド・キーンの『続 百代の過客』には、正岡子規に二十数頁割かれており、同書中、石川啄木に次いで多くの紙数が費やされている。ただし、子規の場合、「日記」というジャンルの適用に関して一言断っておく必要がある。
 子規の研究者たちの多くは、子規最後の二年間に書かれた三作品『墨汁一滴』『病床六尺』『仰臥漫録』のうち、前二者は「随筆」に分類し、後一者のみ「日記」と見なすのに対して、キーンは、三作品とも「日記」として取り上げている。「たとえ普通の日記には書かないような材料が時に見られても、それらがすべて、病床の子規の脳裏を日々よぎったものだったことは間違いない」というのがその理由である。
 日々身体を蝕んでゆく病魔と戦いながら、時に狂気すれすれの精神状態に追い込まれながら、これほど規則的に見事な文章を死の直前まで書き続けた子規の精神の強健さには驚嘆する。「一瞬一瞬が苦痛であり、布団の上で寝返りも打てないような状況にあって、いったいどこからどのようにして、彼は書き続ける力を見出してきたのだろうか。日々日記を付けることが、子規にとっては、生命そのものと同じほど大切なものに思えたのに違いない」とキーンは述べているが、そのとおりだったろうと思う。それは「自分が生きている証」だった。
 岩波文庫版『仰臥漫録』の巻末解説を書いている阿部昭はその解説をこう結んでいる。

小天地といえどもそこに森羅万象の影を宿し、現世への野心と快楽の逞しい夢から失意失望の呻吟、絶叫、号泣に至る人間性情のあらゆる振幅を畳み込んだ、この無尽蔵に豊富な一巻を数語に要約することは到底不可能である。ここにはわれわれが文学と名づけるもののエッセンスが入っており、それは読者にいかような読み方をも許すのである。これほど虚飾を去った人間の記録をわれわれは他に知らない、この十年後に子規よりも更に若くして死ぬ啄木の『ローマ字日記』を除いては。

 いかなる概念・範疇を動員しても到達不可能な、個物としてのそもそもの人間の姿がそこに刻みつけられている。まさに身命を賭して子規は不朽の文学作品を世に遺した。