夢は思い通りにならない。少なくとも私の場合はそうである。覚醒時あるいは入眠時になんらかの「儀式」を行うことで夢の内容を制御できるのかも知れないが、私にはその手立てがわからないし、それはそれで自分の心を誤魔化しているようにも思える。
夜毎の夢の内容は、細部において異なるが、筋書きはほぼ同工異曲である。時間に間に合わない、目的地にたどり着けない、帰りたい場所への道順がわからない、ほぼすべて、このいずれかの状況のなかで焦り苦しむ。目覚めると冷や汗でびっしょりというような悪夢は見たことがないが、目覚めてうんざりするような夢は数えきれない。
夢は私にとって煉獄なのかもしれない。自分の犯した罪(といっても法的に裁かれるべき犯罪ではないが)を忘れるなと、夜毎に小さな試練に晒されているということなのかもしれない。目覚めてすぐに細部は忘れてしまう。面白くない気分にちょっとのあいだ包まれるくらいで、日常生活にはなんの支障もない。
夢(rêve)は思い通りにならないが、夢想(rêverie)は思いのままだ。いや、自分の好きなように思い描ける、というよりも、夢想そのものがその世界を自由に時間に捕らわれずに繰り広げる。思考(penser)による統制はない。想像力には自ずと限界があるが、夢想のなかではその限界を感じることはない。
コンディヤックは『人間認識起源論』(Essai sur l’origine des connaissances humaines)のなかで夢想についてこんなことを言っている。
Dans ces moments de rêverie, […] on se plaira, par exemple, beaucoup plus dans une campagne, que dans les plus beaux jardins. C’est que le désordre qui y règne, paraît s’accorder mieux avec celui de nos idées, et qu’il entretient notre rêverie, en nous empêchant de nous arrêter sur une même pensée.
夢見心地のときには、美しい庭園よりも、野原の方を人ははるかに喜ぶのである。というのはこの野原を支配している無秩序が、われわれの観念の無秩序と共鳴し、われわれが一つの同じ思考にとどまらないように、夢見心地のまま、そっとしておいてくれるからである。
『人間認識起源論』、古茂田宏訳、岩波文庫、下巻、253頁、一部変更。
睡眠中の夢が思うようにならないのならば、日毎に夢想に遊ぶ時間をもつことで心の均衡を維持するのも一つの精神の健康法と言えるのではないだろうか。