内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「もののあはれ」と「神ながらの道」との交叉点はどこにあるか ― 今年度最終講義を終えて

2018-05-02 23:49:47 | 講義の余白から

 今日の記事のタイトルを見ただけで、ま~た小難しいテツガク的屁理屈話かよって、即座にこの頁を閉じようとされた方も少ないくないことでしょう。というか、そういう方にはこの一文さえ読んでいただけなかったことでしょう。
 でも、ここまで読んでくださった方には、申し上げます。どうかご安心ください、今日の記事は、今日の午後の出来事についてちょっと呟くだけすから、と。
 今日の午後の近世日本文学史が今年度最終講義でした。予告どおり、本居宣長の「もののあはれ」論について約1時間半話しました。その間、2回、同じ女子学生が質問してくれて、どちらもとても良い質問だったんですね。おかげで、その質問に答えることで今日の講義の要点を強調することができました。
 『源氏物語玉の小櫛』の一節を注解するかたちで「もののあはれ」について説明していたところ、月や花を見て「ああなんと美しい」と自ずと思う心が「もののあはれ」を知る心だという趣旨の一節を読んでいると、その女子学生がやおら手を上げて、「先生、月も花も見ることができない盲人は「もののあはれ」を感得することができないってことになりますか」と質問したんですね。
 それに対して、おおよそ次のように答えました。
 確かに、「もののあはれ」に関して宣長が挙げている例は視覚に偏っている。聴覚・嗅覚・触覚・味覚については例がない。視覚では、対象はある距離を於いて現われ、それに対して見る側は感情を抱く。では、距離がおかれた対象に対して、それが引き起こす感情、およびその対象が「もののあはれ」なのだろうか。こういう二元論的図式は、しかし、「もののあはれ」の理解にとって障害にしかならなない。これは私の捉え方に過ぎないが、「もののあはれ」は、感覚におけるコミュニオン(communion)の経験なのだ。だから、特に視覚に限定される経験ではない。
 こう答えた後、「もののあはれ」についての説明を再開すると、ものの数分もたたないうちに、同じ学生が、「先生、「もの」ってなんですか。漠然としていて、何のことだかよくわかんないんですけど」と、二本目のクリーンヒット的質問をしてくれました。
 この質問は、こちらの読みどおりで、待ってましたとばかりに、古典語としての「もの」一般の定義と、『源氏物語』固有の用法について、大野晋説に依拠して説明しました。
 講義が終わり、ああこれで学生を前にして話すのも今年度はこれで終わりだなぁ、と、少しホッとしつつ教室を出ると、質問した学生とは別の学生に呼び止められました。他の3人の学生と一緒に近づいてきて、「先生、「もののあはれ」って全然わかんないですけど」と聞いてくるじゃありませんか。
 さすがに講義内容をもう一度全部繰り返すわけにもいかず、要点を繰り返すにとどめ、その上で、『古事記伝』における「古道」の文献学的研究と『源氏物語』研究における「もののあはれ」論との関係をどう考えるべきかについてヒントを与え、「あとは自分で考えなさい。来週の試験の問題はもう先週のヴァカンス中にメールで伝えてあるんだしね。これが学部生である君たちに出す最後の問題だよ。難しいことは認めるよ。だから、一週間、しっかり準備しておいで」と捨て台詞を吐き、まだ狐につままれたような顔をしている彼らをその場に残し、プレハブオンボロ校舎を後にしました。
 学生諸君、自分たちの知力・感受性・想像力を総動員して、脳髄の最後の一滴まで絞り尽くすようにして、一つの問題を考え抜いてみよ。













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