内的自己対話-川の畔のささめごと

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中江兆民『民約訳解』の仏訳 ― 翻訳を原語に「訳し戻す」試み

2023-04-18 23:59:59 | 講義の余白から

 「近代日本の歴史と社会」で自由民権運動を取り上げるとき、中江兆民の『民約訳解』の話を少しする。これがルソーの『社会契約論』の第一編と第二編のみの部分訳であることはよく知られている。兆民は1874年に一旦日本語に訳したが、1882年から1883年にかけて漢文に訳し直し、これが『民約訳解』の名で出版され、日本だけでなく中国でも知られるようになる。この訳業がどれほどのインパクトを当時の知識人に与えたのか、そう簡単には答えられないようだが、今日のルソー研究者たちから見ても、その訳業と注解には傾聴すべき解釈と見解が示されているという。
 私が授業で取り上げるのは次のほんの短い一節のみだが、そこにも兆民独自の解釈が示されている。漢文訓読体で引く。その後に仏語原文を引く。

此の約に因りて得るところ、更に一あり。何の謂いぞ。曰く、心の自由、是なり。夫れ形気の駆るところと為りて自から克脩することを知らざる者、是れ亦た奴隷の類のみ。我より法を為り、而して我より之に循う者に至りては、其の心胸綽として余裕あり。然りと雖も、心の自由を論ずるは理学の事、是の書の旨に非ず。議論の序、偶たま此に及ぶと云うのみ。

『民約訳解』「人世」

On pourrait, sur ce qui précède, ajouter à l’acquis de l’état civil la liberté morale qui seule rend l’homme vraiment maître de lui ; car l’impulsion du seul appétit est esclavage, et l’obéissance à la loi qu’on s’est prescrite est liberté. Mais je n’en ai déjà que trop dit sur cet article, et le sens philosophique du mot liberté n’est pas ici de mon sujet.

Du Contrat Social, Livre I, chapitre 8, « De l’état civil ».

 注目されるのは、原文の « la liberté morale » を「心の自由」と訳していること、« l’obéissance à la loi qu’on s’est prescrite est liberté » を「我より法を為り、而して我より之に循う者に至りては、其の心胸綽として余裕あり」と訳していることである。「道徳的自由」の訳されることが多いところを「心の自由」とし、ある現代語訳では「みずから定めた法に服従するのが自由だ」と訳されているところを「心綽として余裕あり」とすることで、自由を心の内面の自由として兆民が捉えていることがわかる。
 ルソーの原文では、社会状態によって新たに獲得されるものとして道徳的自由が加えられている。つまり、社会的存在としての自由なのだ。ところが、兆民はその自由を内面の自由として捉えている。社会で生きる個人が自律的であることによってその社会に対して自由と独立を確保できるというのが兆民の解釈だと読める。
 この『民約訳解』をフランス語に「訳し戻す」という珍しい試みが2018年に出版された(Nakae Chômin, Écrits sur Rousseau et les droit du peuple, Les Belles Lettres)。訳者の一人とはシンポジウム等で何度も一緒になったことがある旧知の仲である。その仏訳によると、「心の自由」はルソーの原文通り « la liberté morale » と訳し戻されているが、上に示したもう一つの箇所は、 « En me donnant des lois et en les observant, j’acquiers une grande âme et un cœur généreux » と兆民の訳文にできるだけ忠実に訳そうとしている。
 それだけルソーの原文からは離れるわけだが、兆民独自の解釈は前面に打ち出されることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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