ネット上のある記事のなかに「九死に一生を得た」という成句が二度使われていて、それがどちらも誤用だった。筆者紹介によると、「出版社に勤務後、編集プロダクションを設立。書籍の編集プロデューサーとして活躍し、数々のベストセラーを生みだす。その後、著述家としても活動。」とのことだが、どうも御本人この成句に関してはまったく誤用に気づいていないようである。その記事の筆者を批判することがこのブログの目的ではないので、記事の筆者は匿名とし、どのような文脈で「九死に一生を得た」という成句が使われていたかだけ簡単に説明する。
二箇所とも、もし予定されていた船あるいは飛行機に乗っていたら、事故に遭い命を落としていた、というエピソードのなかで使われている。予定していた船あるいは飛行機に乗らなかったのは、まったくの偶然で、何かの虫の知らせでもないし、乗船あるいは搭乗前に命を脅かされるようななんらかの危機的な状況に置かれていたわけではまったくない。偶然のめぐり合わせで命拾いをしたとでも言うべきところである。このような場合に「九死に一生を得た」を使うのは、言い訳のしようのない誤用である。
『角川必携国語辞典』(14版、2016年)には、「九死に一生を得る」が立項してあって、語釈は「ほとんど助かる見こみがなかったところを、どうにか助かる」。注記として「九分の「死」と一分の「生」という意味から。」とある。
手元にあるその他の小型辞典四冊はいずれも「九死」を立項し、その項内に成句として「九死に一生を得る」を挙げている。その四冊中「九死」について最も詳しいのは『新明解国語辞典』(第八版、2020年)―「救いが来るとか情勢が急転換するようなことが無ければ当然死ぬであろうと思われる、絶体絶命の危機。「―に一生を得る〔もう少しで死ぬあぶないところを、やっと助かる〕」。
「九死」とは「もう助からないと思われるほどに危険な状態」(『明鏡国語辞典』第三版、2021年)ということである。ところが、上に言及した記事内の二例の前提となっている状況は、そのような危険な状態ではない。だから誤用なのである。
漢和辞典で「九」の項の熟語としての「九死一生」を見てみると、文脈あるいは時代によって異なった用法があったことがわかり、興味深い。日本語の成句とほぼ同義とみなしてよい場合ももちろんあるが、『角川 新字源』(改訂新版第3版、2019年)では「いくたびも死にそうになったが、かろうじて助かること〔楚辞・離騒・注〕」となっている。古代文学ではむしろこの意味で用いられたということだろうか。
他方、『漢字源』(学研、改訂第六版第一刷、2018年)は、「ほとんど助からない状態だったが、ようやく助かること。〔紅楼夢〕」となっていて、一八世紀の小説にこの用例があることがわかる。
『新明解現代漢和辞典』(三省堂、2020年、第九刷)は、「絶体絶命の場面で、奇跡的に助かる。九死に一生を得る。〔「十死一生」新書・匈奴から〕」と出典を示している。『新書』は、「前漢の賈誼の著。秦滅亡の原因を論じた「過秦論」をはじめ、政治や学問に関する論説を収める」(同辞典「書名解説」による)。
『漢辞海』(第四版第五刷、2021年)には、「危機一髪の状態から、ようやく助かる。きわめてあやうい状態にいるさま。真徳秀・再守泉州勧論文」とあり、同項の注には「もとは「十死一生」と書かれていた。」と記されている。真徳秀は十二世紀から十三世紀にかけて南宋の学者である。この説明からは、まだ助かるかどうかわからない危険な状態にいることも「九死一生」(あるいは十死一生)が意味しうることがわかる。
『日本国語大辞典』の「九死一生」の項は、「(一〇のうち「死」が九分、「生」が一分の意) ほとんど助かるとは思えないほどの危険な状態。また、そのような状態からかろうじて命が助かること。」となっており、最初の例として、平安中期の『左経記』の例が挙げられていて、そこでは「ほとんど助かるとは思えないほどの危険な状態」という意味で使われている。この意味での「九死一生」が先に導入され、後に「そのような状態からかろうじて命が助かる」という意味が「得る」を加えることで出てきたのだろうか。中国ではもと「十死一生」だったというが、いつ「十」が「九」に取って代わられたのだろうか。
長い歴史の中で同じ表現にも意味の揺らぎがあることは当然だし、それをめぐるさまざまな疑問がすぐに解けるわけではないが、言葉の歴史を追い求める辞書の中の「旅」もまた楽しからずや。
最近、気になるのは出版社の作家の広告文などに「綺羅星のごとく現れ」だとか「この時代綺羅星のごとく作家が並び立っていた」などの表現です。
「星のごとく」ならともかく、「綺、羅、星のごとく」(綺という織物と羅という織物が星のごとく煌めいている)という語源を無視して、「綺羅星」などという実在しない語を遣うなど、出版社に有るまじき事だと思います。
校閲は一体何をしているのかと思います。