今日から夏時間。ヨーロッパでの現行のサマータイム制は確か1974年からのことで、とすれば今年でちょうど五〇周年である。少しも目出度くない。28年前にフランスに来たとき以来毎年のことで慣れっこになってはいるが、正直、大嫌いである。強制的に生活のリズムを変えさせられるのに無性に腹が立つ。たった一時間、時計の針を進めるだけのことである。たいしたことはない、と言う人もあろう。しかし、病院・学校・役所等の公共機関の時間割も交通機関の時刻表も商業施設の開閉店時間もこの時間変更に合わせなくてはならない。個人の生活リズムを権力が問答無用で操作するなんとおぞましい制度であろう。施行当初には省エネ効果という大義名分があった。が、それは現在ほぼ完全に有名無実化している。むしろ健康への悪影響を指摘する声は多い。私は幸いなことに何事にも鈍感にできているので健康被害を実感したことはないが。2019年に欧州議会で2021年での廃止が可決されたにもかかわらず、コロナ禍でそれどころでなくなり、以来、有耶無耶のままである。一日も早い廃止を切願する。
さて、時計で計測される同じ時間を長いと感じるか短いと感じるかは主観的な問題だ。私の個人的な感覚として、今年最初の四半期はなんかやたらと長かった。といって「リア充」だったわけではまったくなく、「元旦からいろいろあったけど、それからまだ三ヶ月しか経ってないのかぁ」ってな感じです。他方、「あれもこれもまだやってないなぁ」という焦りによる冷や汗も背中を流れて続けていて、満足感とも充実感とも程遠い。
どっちに向かっているのかわからない、中空に漂うかのような、このそこはかとなき開(解)放感の理由を強いて探すならば、さしあたり、以下のようにまとめることができるかも知れない。
いろいろあって、あれこれ考えてもさ、まっ、できないことはできないし。これから頑張ってどうなるものでもないし。ぶっちゃけ、希望も期待も企画も目標もないし。見苦しいほどにじたばたせず、じじい、とっととくたばれと人様から内心煮え立つ憎悪とともにつぶやかれるほどの迷惑はかけずに、それなりに穏やかな最期を(願わくは、麗しき大和の国の満開の桜の木の下で)迎えることができれば、それ以上何をのぞむことがあろうか、という、なんとも夢想的で、他者に対してとことん無責任で、救い難く非社会的(でも、反社会的ではない、ですよね)な、サトリのキョウチが向こうから仄かに見えはじめている。
これもまた儚き幻影に過ぎぬかも知れぬが。
これは戦争など国家的規模の非常事態に対する訓練じゃないかと思いました。