『武士道』において相良亨が原典資料から切り出してくる武士の姿は名工の手になる彫像のように凛然としている。それは実際にそのような武士たちがいたということを史料に基づいて論証するためというよりも、かくありたき人倫の形として描き出される。そう描き出すことを通じて、常に自己のあり方が問われている。このような態度で貫かれた思想史研究書はきわめて稀である。
第一章「ありのまま」から一節だけ引用する。他に引きたいところがないのではなく、二つ三つと続けるときりがなくなりそうだから、あえて一箇所だけにする。
将たる者はあなどられているのではあるまいかという意識、あなどられまいとする意識をつきぬけて、ありのままの自己を以て、内の者の前に立つべきなのである。勿論それは気儘に地金のままにという意味ではない。ありのままとは、いわば一つの境地であり、きびしく自己をみがきあげる努力をふまえてはじめてありのままたりうる。人の前を飾り偽ることなく、ひたすら自己自身をきびしくみがき上げつつ、そのありのままの自己を以て勝負をするというのが、ありのままをよしとした戦国武将の姿勢である。(38‐39頁)
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