内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「『おくりびと』についての学生たちの優秀感想文集」

2019-12-11 08:51:03 | 講義の余白から

 先々週と先週の二回に分けて、学生たちに映画『おくりびと』全編を鑑賞させた。作品のよりよい理解のための語彙表を作成し、あらかじめパワーポイントで一語一語について説明してから鑑賞させた。
 私が所有しているフランスで購入したDVDは、フランス語の字幕をOFFにすることができず、日本語の聴解に集中させるという授業の目的にとっては不都合な点もあったのだが、学生たちにしてみれば、作品の内容が語学的障害によるストレスなしに展開に沿ってよりよく理解できるという利点もあった。
 観たことがある学生がいなかったのは、皆同じ条件で観られるという点で、むしろ幸いであった。映画を観る前に、映画の鑑賞を通じて考えてほしいテーマとして、死とは何か、死者を送るとはどういうことなのか、死者と生者との繋がり、職業の貴賤、天職、家族の絆などを挙げておいた。彼らがこれまでこの映画を観ようと思わなかった理由の一つは、まさにこれらの「重い」テーマが扱われているということにあっただろう(他にいくらでも「軽く」「楽しく」「面白い」日本映画はあるのだから)。
 主題が主題だけに、この映画に対して嫌悪感あるいは拒絶反応を示す学生がいるかも知れないと若干危惧された。ところが、それは杞憂に終わった。映画の冒頭から、こちらの予想以上に学生たちは映画に惹きつけられていた。ほとんど全員がこの映画を観ることができてよかったと感想に記していることからもそれは裏づけられる。
 全部観終わった後、感想を自由に書いて今週月曜日までに送るようにと課題を出した。28人が課題を提出してくれた。その中には、よくそこまで考えてくれたねと喝采を送りたくなるようなかなり長文の作品分析もいくつかあったのだが、ここには、短いがよく書けている感想文四作を掲載する。多少私が手を入れてはいるが、基本的に学生たち自身が書いた日本語文である。

 最初は、何を期待すればよいかわかりませんでした。映画は悲しくて暗いものになると思いました。ところが、最後には、私はこの映画がとても感動的だと感じました。それは死とそのタブーに甘さと静けさに満ちた新しい外観をもたらす映画だったからです。
 「 おくりびと 」は、死と喪の両方のテーマを扱っていますが、それでも私たちを笑わせることができます。
 この映画はとても詩的だと思います。主役は観客に納棺の別の側面を見せてくれます。納官の場面は繊細で、優雅です。
 死を恐れているので、私はそれについて多くの映画を見ません。 しかし、この映画は、死はドラマではないことを私に実感させました。
 死がなければ、人生は人生ではありません。

 『おくりびと』という映画は、独特の方法で死を取り扱っていると思う。喪を通じて死について話している。しかし、慰めようのない喪ではない。反対に、この映画は、生きている人々と彼らの人生に与える意義を中心している。私の考えでは、納棺の儀を通じて見ることができるこの面が幾分慰めを与えてくれる。
 シナリオは大悟を中心としているが、登場人物それぞれに魅力がある。各々のキャラクターが死亡や喪と特別な関係にある。例えば、佐々木さんは亡くなった妻が恋しいことや、銭湯の常連客が亡くなった銭湯の主を火葬にすることなどである。このような背景は、ストーリーやキャラクターをより写実的なものにしていると思う。また、時に微妙で、時に微妙ではない映画のユーモアは、悲しいショットの間に息をつかせてくれる要素である。
 結論としては、私は、『おくりびと』という映画のおかげで、日本の喪と関係がある儀式についての仕方をよく勉強することができた。だからこそ、面白い映画だと思うのである。

 この映画は、テーマも、久石譲の音楽もとても美しくて、どこか寂しかったと思いますが、一番興味深い所はタイトルにあると思います。私はこのタイトルがとても好きです。納棺師の大吾さんは死んだ人を美しくし、まさしくただ眠っているように見せ、その人を見送る人でありながら、それ以上にその人の家族も見送れるようにする役目を持っています。つまり、送る人でもありながら、送るのを手伝う人でもあるのだと思います。最後のシーンでそれがよく分かります。自分の家族であるお父さんをきちんと送るために、納棺師の役割を果たします。このタイトルの深い意味がフランス語や英語の訳で無くなってしまう所が残念です。「Departures」は旅立つ人達の事を示していますが、この映画で一番大事な点は残された人達の思いだと思うので、この訳は良くないと私は思います。

 「おくりびと」という映画は型破りのテーマを取り扱っています。それだから、これまでに見たことのないタイプの日本映画でした。生についての考えをより良く表現するために納棺師の観点や死のさまざまな在り方を取り上げています。最近自分の親戚の人が亡くなりましたから、喪を描くシーンの間、特に感動しました。葬儀の場面は芸術品のように撮影されています。他方、映画全体を軽くするユーモアの要素が各所に散りばめられていて、それが話の展開についていきやすくしてくれました。

 上掲の四つの感想文はすべて女子学生によるものである。女子学生が登録学生32名中23名と七割を超えているから、「多勢に無勢」ということはあるが、男子学生諸君にも奮起を促したい。












「憧憬」(Sehnsucht)は「郷愁」(nostalgie)ではない ― 哲学的考察の試み(七)ヘーゲルによる « Sehnsucht » 批判(承前)

2019-12-10 19:12:25 | 哲学

 到達不可能だとわかっている理想的なものへの憧憬に終始するだけで、敵意に満ちた現実世界の中に身を投げ入れ、その現実世界との和解とそこでの承認を獲得しようとしない無為性をヘーゲルは批判する。ヘーゲルにとって、哲学の役割は、精神が世界の中に意味を見出し、世界と和解し、そこに己自身を発見し、己を取り戻すことそのことにほかならない。
 このような哲学的立場から、ヘーゲルはロマン主義批判を諸著作のなかで繰り返している。その批判の矛先は、現実逃避とただ恋い焦がれるだけの精神状態へと向けられている。
 『美学講義』の中でも、ヘーゲルは、到達不可能なものへの憧れに安住するロマン主義者たちを批判している。民衆詩の素朴さを再び見出そうとするロマン主義者たちの「物憂げな憧憬」を批判する。同様な態度を批判するために、 « Sehnsuchtigkeit » という造語まで行った。ノヴァーリスに対しては、有限性に触れることで「穢れる」ことをおそれるゆえに、現実の行動と生産に携わることへと身を低めることを拒否する「物憂げな憧憬」に終始するその思想を批判する。












「憧憬」(Sehnsucht)は「郷愁」(nostalgie)ではない ― 哲学的考察の試み(六)ヘーゲルによる « Sehnsucht » 批判

2019-12-09 23:59:59 | 哲学

 ここまで見てきたところから明らかなように、初期ロマン主義思想は、憧憬(Sehnsucht)の積極面を強調することによって、憧憬に本来内在する苦悩や受動性を覆い隠す傾向にあった。ところが、ヘーゲルにとっては、憧憬とは、まったく逆に、不幸なる意識の典型的な発現形態であった。『精神の現象学』に見られる憧憬の価値の下落は、フィヒテやロマン主義者たちへの批判を意味していた。
 この点について、Hegel et l’hégélianisme (par René Serreau, « Que sais-je », N° 1029, 1968) に、ヘーゲルのフィヒテ哲学及びロマン主義批判が簡潔明瞭にまとめられている箇所がある。そこを全文引用する(尚、同じ « Que sais-je » 叢書の中に、まったく同一書名で、それぞれ著者を異にした二つの別のより新しい版がある。Jacques D’Hondt による1983年版とJean-François Kervégan による2005年版である。この両版には、ヘーゲルによる Sehnsucht 批判への言及はまったく見られない)。この Serreau 版は、白水社のクセジュ叢書に収録されており、ここにもその高橋充昭訳を引かせていただく。

ヘーゲルは、フィヒテの学説に見られるような、この種の当為の哲学に反対する。こういう哲学においては、理想的なものはけっして到達されないからである。まして、ロマン派の人たちのもとで漠たる仕方で表現されているような哲学、たとえばノヴァーリスの Sehnsucht(憧憬)とかフリードリヒ・シュレーゲルのイロニーは言うまでもない。この種の学説は現実に対する不満を含んでおり、霧に包まれた遙かなものへの空虚な超出を渇望させる。たしかに人間はまずはじめは、よそよそしい、敵意に満ちた世界に投げ込まれたという感じをもち、途方に暮れる。しかし、哲学の役割は人間を現実の世界から遠ざけるところにあるのではない。哲学は、人間が世界のなかに精神と同質のものを発見し、こうして世界と和解できるようにしてやらなければならない。精神が世界のなかに自己を認知し、こうして世界を理解するならば、精神は世界のなかにあってもくつろいだ〔chez soi(自己のもとにいる、わが家にいる)〕気持になる。世界を理解し、世界に一つの意味を与えるとき、精神はもはや世界のなかで途方に暮れた気持にならず、そのようにして自己に同化したもののすべてによって豊かになって自己に還帰する〔revient à soi(自己を取り戻す)〕。現実を理解すること、現実を完全に理解可能なものにすること ― これが哲学の真の目標である。すべては合理的なもの、《観念的》なもの、言いかえれば理性によって合致的に認識可能なもの、理性のもつ諸観念と同じ性質のもの、と認められねばならない(ラッソン版『論理学』第一巻一四五ページ参照)。








 


「憧憬」(Sehnsucht)は「郷愁」(nostalgie)ではない ― 哲学的考察の試み(五)神性を目指す希求そのものが神的起源を有するという円環的思考

2019-12-08 17:18:04 | 哲学

 フィヒテによってその初動が与えられた真の創造力としての « das Sehnen » という思想は、初期ロマン主義者たちによって継承・発展・深化される。
 フィヒテにおいては未知なるものの認識の動的原理としての価値を与えられた « das Sehnen » は、ロマン主義者たちによってより心理学的・人間学的な概念 « Sehnsucht » へと変容させられる。フリードリヒ・フォン・シュレーゲルは、その晩年の著作の一つで、« Sehnsucht » は「精神の領域において偉大なるもの・美しいもののほとんどすべて」の源泉であると言っている。
 すでにフィヒテにおいて、『浄福なる生への導き』の中で、「永遠なるものへの憧憬(Sehnsucht)」は一種の生命原理とされており、それは「有限なるあらゆる存在の最も深い根源」とされていた。人間自身の内には、己のこの内なる渇きを癒やしてくれるものはない。「真の憧憬は、その対象として、接近不可能なものしか持つことができない」と、ゲーテも『詩と真実』の中で言っている(ただし、ゲーテ自身は、この種の憧憬礼讃に対して距離を置いていることを強調しておく必要がある)。
 この「憧憬(Sehnsucht)」という原理に対して、フィヒテ、次いでシュライエルマッハーとフリードリヒ・フォン・シュレーゲルは、形而上学的・宗教的な次元を付与する。「憧憬」は、シュレーゲルにとって、「最も先鋭な希求という限定し難い感情」であり、「地上に現実に在るいかなる事物も、たとえ理想的なものであってさえ、その希求に満足を与えることはできない。なぜなら、その希求は永遠なるものへ、より一般的には神性へと向かっているからである。」
 『詩についての対話』の中で、若きシュレーゲルは、「憧憬は絶えず再生する」とすでに言っていた。真の「憧憬」は、限界を知らず、「歩一歩、つねにさらなる高みを目指す」(『言語と言葉の哲学』)。シュレーゲルの思考に特徴的な円環的運動においては、神性へと私たちを向かわせる衝動そのものが神的な起源を有している。












「憧憬」(Sehnsucht)は「郷愁」(nostalgie)ではない ― 哲学的考察の試み(四)内なる欠如の自覚が未知なる外への希求を生む

2019-12-07 20:41:45 | 哲学

 フィヒテの『全知識学の基礎』の初版(1794/1795)において、« Das Sehnen »(憧れ・思慕・切望)は重要な概念として機能している。フィヒテにとって、自我が自覚する己の制約と限定は、己自身の外なるものへと抗いがたく己を向かわせるものはいったい何なのかと自我に自問させる。その外なるものは、自我にとってまったく未知なるものである。その未知なるものは、何かわからないが自分には求めているものがある、何かわからないが自分を苦しませているものがある、何かわからないが自分には決定的に欠如しているものがあるという感情として経験される。それらは、概念として明確に対象化することができない。この未知なるものの内的実感は、自我自身において、何か己にとって「外なるもの」が在ること、それへの止みがたい憧れとして経験される。この憧れによってのみ、自我は、己のうちにおいて、己の外へと、未知なるものへと、未来へと突き動かされる。この憧れによってのみ、自我において、外なる世界が開示される。
 己の外なるものによって突き動かされているという意味では自我は受動的だが、憧れずにはいられないという感情によってその外なるものへと向かおうとする動性において自我は能動的である。自我のこのような内的緊張状態である « Das Sehnen » が外なる世界を変えようという意志を自我に与える。この憧れにおいて、未知なる理想への希求と困難な現実へと立ち向かう意志とは分かちがたく結びついている。フィヒテは、« sehnen » という動詞をそのまま実詞化することによって、もともとは主体の受苦性に重心が置かれていたこの動詞を動性と積極性を孕んだ哲学的概念へと変容させたのである。













〈なつかしさ〉 « nostalgie » « Sehnsucht » の意味論的差異が開く比較思想史的考察への一視角

2019-12-06 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事の最後の段落で言及したテーマ「〈なつかしさ〉 « nostalgie » « Sehnsucht » の三つの概念についての比較思想史的考察」を今後発展させていく準備作業の一つとして、この三つの語の語源レベルにおける差異についての考察をまとめておきたい。このまとめは、〈なつかしさ〉と « nostalgie » を比較検討した三回の記事(6月22日~24日「なつかしさはノスタルジーではない」)と、« nostalgie » と « Sehnsucht » を比較検討した三回の記事(11月24日~26日「「憧憬」(Sehnsucht)は「郷愁」(nostalgie)ではない」)を前提としている。
 〈なつかしさ〉は、現在の場所における長期に渡る定在の願望である。ある人あるいはその人の属性(声など)あるいはその人ゆかりのものといつまでも〈ここ〉に一緒にいたいという感情がその基底にある。強い関連を有する概念として、現前・共感・愛情・愛着・持続などを挙げることができる。
 « Nostalgie » は、過去に実在した或いは過去に自分が実在した場所への回帰の願望である。ここではない場所(特に生まれ故郷)から今は遠く離れてしまっており、そこに帰りたいと切に願いながら、その願望は満たされないままである苦しみがその基底にある。強い関連を有する概念として、不在・離別・苦悩・悔恨・喪失などを挙げることができる。
 « Sehnsucht » は、ここではない別の場所への止みがたい憧れであり、未来へ向けての願望である。しかし、いつか到達したいと願うその「場所」について、明確な対象規定はない(或いはできない)。あっても抽象的なものにとどまる。むしろ、ここにはない未知なるものへの希求がその基底にある。強い関連を有する概念として、欠如・希求・思慕・不充足・不可能性などを挙げることができる。
 このように、〈なつかしさ〉、 « nostalgie »、« Sehnsucht » の三つの概念は、それぞれの語源的意味において、現在、過去、未来を志向する互いに相異なった時間意識を表している。現実の現在の用法には、これら三者を「同意語」と見なせる場合があるにしても、三者間の語源レベルでの意味論的差異の明確化は、より広範な比較思想史論的考察への一つの視角を開いてくれる。












「研究入門」― 日本語の特性についての若干の哲学的考察

2019-12-05 11:30:09 | 講義の余白から

 昨日は、午後六時から八時まで、学部二年生向けの « Initiation à la recherche »[研究入門]という授業を行った。この授業は、各教員が学期に一回ずつ担当し、それぞれ自分の専門分野について、研究方法の「手解き」の入り口を案内することをその趣旨としている。学部一・二年の授業は担当していない私にとって、教室で彼らに相見えるのはこれが初めてであった。中には、書類への署名を求めて、あるいは質問をしにオフィス・アワーに来たことがある学生もいるが、それは極少数であるから、大半の学生たちとは、ほぼ「初対面」であった。
 そこで、昨日の授業で私が最初に発した一言は、「皆さんが私のことを知っているといいのですが、学科長のKです。どうぞよろしく」であった。もちろん、入学時のオリエンテーションのときをはじめ、講演会など学科の行事の席で私を見かけたことはあるだろう彼らにとっては「初対面」ではないから、皆笑っていた。
 研究入門とはいえ、彼らは卒論を書くわけではないし、マスターまで進む学生も多くはなく、ましてや研究者を目指す学生は皆無に等しいから、いきなり専門的な話、とりわけ小難しいテツガクの話を聞かされても興味を持ちにくいであろう。それにたった一回二時間の授業である。
 そこで、彼らの現在の勉強にとっても役に立ちそうな、日本語の特性についての哲学的考察を中心に授業を展開した。このブログでも過去に何回が取り上げたことがある話題ばかりだから、ここにその内容を繰り返すことはしない。「思う」と「考える」、「わかる」と「理解する」、「から」と「ので」など間の意味論的差異について日常言語から例文を挙げて説明し、そこから若干の哲学的考察を引き出した。次に、日本語における「主語」という概念そのものの問題性を、翻訳の問題とからめて指摘し、そこから日本語の特性そのものの考察へと及び、時枝誠記の言語過程説とリュシアン・テニエールの構造統語論とに共通して見られる動詞を文構成の基底に据えた言語観がその特性の分析にきわめて有効であることを強調したところで時間となった。
 学生たちは概してよく聴いていた。いくつかいい質問も出た。こちらからの質問に対して的確な答えを返してくれた学生もいた。実は、もう一つ話題を用意してあって、それが昨日の記事の終わりに紹介した三番目のテーマ「〈なつかしさ〉 « nostalgie » « Sehnsucht » の三つの概念についての比較思想史的考察」だったのだが、時間切れで、一言触れることさえできなかった。後期にも一回この授業を担当するので、そのときのために、さらに「ヴァージョンアップ」した考察を今から準備しておこう。












来年度集中講義のための三つのプラン ―「陰翳の現象学」「〈空〉の倫理学」「〈なつかしさ〉の哲学」

2019-12-04 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事で話題にしたように、私自身にその気があり、かつ夏休み前の四月から七月の間に二週間あまり日本に滞在することができれば、来年度も「現代哲学特殊演習」という大学院での集中講義を行うことができる。この講義を担当することでいただける給与額は、往復の航空運賃と二週間の滞在費におよそ相当するから、「赤字」にはならないが、「儲け」もない。お金を稼ぐことが目的でこの講義を引き受けているわけではなく、自分で自由に選んだテーマについて日本語で話していいという他にないありがたい機会だから、それをいただけるだけで感謝している。ただ、たとえ土曜日三回だけとはいえ、三週続けて午前九時から午後六時まで五コマ連続で講義するのは、昼食時間を含めて四回休憩するとしても、学生たちにとってかなり過酷だろう。この科目は必修ではないから、履修者が零ということもありえなくはない。まあ、そのときは「自然消滅」ということで致し方ないが。それはともかく、講義内容について考えることは、それ自体が楽しいし、あるテーマについての自分の考えを整理する機会でもある。
 テーマは自由に選んでいいとはいえ、フランス語が読める学生は皆無に等しいから、翻訳のないテキストは選びにくい。たとえ英語でも読解の速度はかなり落ちる。それに、たとえ日本語でも、原典講読は、学期あるいは一年を通じて週一回一コマのペースで行う形式のほうが適しているように思う。ここ数年は、その年の前半あるいは前年の後半に何らかのかたちで別の機会に取り上げたテーマを再度取り上げてきた。来年もその方針でいくとすると、次の三つのテーマが考えられる。
 『陰翳礼讃』をキー・テキストとし、メルロ=ポンティの『眼と精神』を併せ読み、フランスの美術史家や文芸評論家たちの影についての考察も参照しつつ、日本文化論ではないより普遍的な「陰翳の現象学」を展開する。
 西谷啓治の『宗教とは何か』における「空」の思想と和辻哲郎の『倫理学』における「空」の哲学とを比較検討することを通じて、西谷における「空」の思想の先鋭性と徹底性を際立たせ、さらにそこから倫理学的含意を引き出す。翻って、フランシスコ・ヴァレラに代表される現代認知科学の知見に基づいた倫理思想の観点から「空」の倫理学の現代性を示す。
 〈なつかしさ〉 « nostalgie » « Sehnsucht » の三つの概念についての比較思想史的考察を行い、この三概念がそれぞれに異なった世界観の時間意識を表現していることを示し、後二者との対比を通じて、〈なつかしさ〉に固有の哲学的含意を引き出す。
 これら三つのテーマについて、拙ブログでもこれから折に触れて話題にすることで、少しずつ考察を展開していきたい。













来年度の日本での集中講義についての想定外の依頼

2019-12-03 18:21:23 | 雑感

 今日の記事のために昨日中に用意しておいたテーマがあるのだが、急遽変更する。ちょっと想定外の依頼が今朝舞い込んできたので、そのことについてちょっと書いておきたい。
 今朝、今年の夏まで9年連続で大学院の前期の集中講義を7月末から8月初めにかけて計15コマ(1コマ1時間半)担当していた日本の大学の教務課から連絡が入り、来年度の集中講義の担当希望曜日を今月16日までに知らせてくれと言ってきたのである。その依頼自体は毎年この時期のことだったから驚くことではないのだが、その依頼文の中に、「東京オリンピック開催に伴い、例年のような集中講義期間を設けないから(つまりその期間は一切授業をしないとうこと、これはこの夏に聞いていた)、4月6日から7月22日までの間の土曜日等に設定してくれ」と書いてあるのだ。海外在住者などまったく想定していないかのような文面である。
 これは想定外であった。来年度はてっきり集中講義は休講になるものと思っていたし、そもそも来夏はオリンピック期間中とその直前直後はとても帰国できないだろうと諦めていた。まあ、どうしても無理となれば断ればいいのだろうけれど、せっかくこれまで9年間続けてきたし、毎年それぞれ学生たちともいろいろ議論できて楽しかったし、こちらの勉強にもなったから、できることなら来年度も引き受けたい。
 しかし、指定された期間の土曜日に集中させるということは、午前9時から午後6時まで、五時限ぶっ通しにやっても三日は必要だ。土曜日三回を含んだ期間帰国しなければならないということは、4月6日から7月22日までの間のいずれかの時期に少なくとも半月間、帰国しなくてはならない。
 ところが、こちらもまだ後期の学期中で、今の段階ではいつ帰国できるか決められない。不可能ではないが、来年度に向けて処理しなければならない大きな案件もいくつかあり、同僚たちには私の不在で迷惑をかけることは避けたい。締め切りぎりぎりまでさまざまな可能性を検討してみることにする。












西洋と日本の間に「空の細道」を架橋する工事 ― K先生の『反則哲学講義録 ストラスブール編』(鋭意編纂中)より

2019-12-02 16:52:45 | 哲学

 先週金曜日の講義「近代日本の歴史と社会」では、その前の週の金曜日の授業をパリ・ナンテール大学でのシンポジウム参加のために休講にしたので、「お詫び」のしるしとして、シンポジウムでの私の発表内容のおおよそ公開するという「スペシャル・メニュー」を授業の半ばに挟み込んだ。
 「この発表はかなり哲学的な話です。皆さんの中には、日本学科にはふさわしくないこうした内容を一方的に押し付ける私の授業に対して不満のある方もいることでしょう。その場合は、K学科長に抗議してください。彼は皆さんの言い分をよく聞いてくれると思いますよ」と真面目くさった顔でもっともらしく前置きして教室の空気を笑いで和ませてから、やおら発表原稿を読み上げ始めた。
 ナーガールジュナの「空」の思想を、 Françoise Dastur 先生の Figures du néant et de la négation entre Orient et Occident, Éditions Les Belles Lettres, collection « encre marine », 2018 に依拠しながら説明しているとき、途方に暮れたように顔を見合わせて苦笑している学生が少なくなかったが、これは致し方あるまい。この上さらに第三部の認知科学と現象学から見た「空」思想の現代性という話をしては、何人か卒倒しかねないと危惧されたので、そこは見出しだけ見せて飛ばした。
 そして、当の発表では時間切れで一言しか触れられなかった第四部に十分ほど充てた。バシュラールの『空と夢』第6章「青空」から何箇所か引用しながら、詩的表象を素材とした西洋から日本へと通じる「空の細道」の架設工事の現場を学生たちに見せるためである。ここはかなり興味を持って聴いてくれたと思う。
 このテーマについては、昨年の3月25日の記事から「青空から虚空へ―西から東への哲学的架橋の試み」と題した連載を15日に渡って行ったが、それっきりになってしまっている。その他にもあちこちやりかけの工事が「人手不足」で中断したり、「諸般の事情」で作業が著しく遅れたりしているのは誠に情けない話である。