内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

所有と憑依 ― 古代ギリシアと近代日本の関係を形成する真逆かつ相補的な二つの精神の運動

2019-12-21 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事で言及した Le Japon grec の序論の中で著者が « possession » の二つの意味について説明している段落を読んでおこう。

 Il existe en français deux types de possession distincts, quoique structurellement liés. Le premier est un rapport de domination qui va du sujet à l’objet. Le sujet se saisit de l’objet et se l’approprie jusqu’à ce qu’il ne fasse plus qu’un avec lui-même. Ainsi le chasseur qui ingère sa proie après l’avoir attrapée. De même, l’observation, l’imitation, la transposition, la comparaison, la synthèse sont autant de pratiques qui permettent aux hommes de constituer des savoirs. Le deuxième type de possession s’opère suivant un mouvement inverse : c’est une force extérieure qui s’empare du sujet et le contraint à suivre sa propre logique. Ainsi, tel qui est possédé par la faim, l’envie ou le démon… Le rapport à la Grèce antique au Japon est marqué par ces deux dynamiques : une volonté active de connaître, d’une part ; une fascination subie, de l’autre. Dans les deux cas cependant, l’état de solidarité, d’appartenance, résulte d’une division initiale (entre deux entités distinctes ou à l’intérieur même du sujet) et demeure fondamentalement précaire. Tout rapport de possession, qu’il soit physique, économique ou spirituel, est de nature duelle et ambiguë. La division y précède l’unité, ce qui tend par comparaison à rendre factice l’unicité et la cohérence de l’imagination contemporaine.

 第一の意味を日本語に一語で訳せば、「所有」である。これは、主体が対象を捉え、それを我がものとする行為を意味する。所有は、観察・模倣・転用・比較・統合など、さまざまな形態を取って実行される。第二の意味では、運動が逆方向に向かう。つまり、対象が主体に取り憑くことである。一言で言えば、「憑依」である。憑依するものは憑依された主体を自らの論理の支配下に置く。
 著者は、古代ギリシアの日本に対する関係は、この二重の意味での possession だと言う。一方には、知ろうとする意志があり、他方には魅惑による支配がある。いずれの場合も、最初は離れ離れであったものの間の繋がり或いは帰属であり、その関係は根本的に不安定なものにとどまる。
 この possession の二重性は、外部から到来するものと主体との間に見られる関係とは限らない。それは主体の内部に引き起こされることもある。例えば、自らの欲望に支配されるとき、その欲望を引き起こす原因となっている外部の対象そのものよりも、引き起こされた欲望によって支配されてしまう場合である。
 所有・憑依関係は、本来的に双性と曖昧さを有っている。分離が統一に先立つ。単一性や整合性は想像力が産み出した見せかけに過ぎない。
 所有・憑依関係をそれとして腑分けすることは、単に古代ギリシアと近代日本との関係の考察にとって有効であるばかりでなく、ある文化の「固有性」を批判的に検討するにあたって威力を発揮することだろう。













年内最後の講義 ― 古代ギリシア哲学概念が二十世紀の極東の一小国に蘇る「再生譚」

2019-12-20 23:59:59 | 講義の余白から

 今日が年内最後の授業であった。明治期のお雇い外国人たちの日本近代化への貢献について話した。例として、ボアソナード、ベルツ、フェノロサについてさらっと話した後、ラファエル・フォン・ケーベルについて、より多くの時間を取って話した。Michael Lucken 氏の Le Japon grec (Gallimard, 2019) の中の « La magie de Koeber » と題された5頁ほどの節を読ませた。そこには、ケーベルが日本の学生たちに古代ギリシア・ラテンの哲学、とりわけその原典への関心を目覚めさせたこと(同節で言及されている西田幾多郎の随筆「ケーベル先生の追懐」には、「唯ケーベル先生によって古典的な重みが与えられたと思う」とある)、ケーベルが学生たちに及ぼした深い影響は、しかし、その博大な古典的教養そのものによってというよりも、哲学すべてを詩的表現として捉えようとするそのロマン主義的傾向にあったことなどが弟子たちの証言の引用を交えながら述べられている。
 同節を読ませたのには、もう一つ理由があった。同節の最終段落には、同書のキーワードの一つである « possession » についての示唆的な論述が見られるからである。「序論」(p. 23) ですでにこのフランス語の二重の意味が説明されているのだが、ここで再度、言葉を変えてその意味の二重性について言及されている。一言で言えば、「我がものとする」という意味と「そのものに取り憑かれる」という意味とが、日本における古代ギリシア文化受容においても分かちがたく結びついているということである。
 西田幾多郎の「ケーベル先生の追懐」の一部を読ませた後、夏目漱石の「ケーベル先生」を原文でまず読ませ、その後に仏訳を読ませ、その最終段落に見られる決定的な誤訳の理由ついて考えさせた。この問題については、2015年10月29日の記事に詳説してあるので参照されたし。
 授業の後半は、哲学の講義であった。学生たちへの少し早めのありがた迷惑なクリスマス・プレゼントである。漱石の随筆「ケーベル先生」の仏訳に見られる誤訳の問題から、日本語における主語概念の批判的検討に入り、そのために時枝誠記の言語過程説を略説し、Vincent Descombes の Le complément de sujet と Lucien Tesnière の Éléments de syntaxe structurale を紹介し、そこから西洋哲学における « sujet » の考古学へと向かい、古代ギリシアの « ὑποκείμενον » の二重の意味がいかにして時枝誠記の言語過程説における主語概念(批判)と言語主体概念との中に截然と分かれて見出されるかを示した。かくして、古代ギリシア起源の哲学概念が極東の一小国の一言語学者独自の学説の中に蘇るまでの「再生譚」を語ったところで今年最後の講義終了となった。
 明日より基督降誕祭の休暇也。心身之軽を覚ゆ。












「タナアゲニスト」の悲哀、あるいは「タナアゲニズム」という勇気 ― K先生個人編集『世界ワカランチン語辞典』(非売品)より

2019-12-19 05:33:38 | 雑感

 「タナアゲニスト」とは聞き慣れない言葉である。そこで、こんなとき頼りになる、世界にたった一部しか現存していないK先生個人編集の『世界ワカランチン語辞典』(非売品)で調べてみた。すると、ちゃんと載っている。「自分のことを棚上げにして、他人について偉そうにあれこれと説教を垂れることを無意識に行動の原則としている残念な人たちのこと。親・教師・評論家に多い。」耳が痛い定義である。私、タナアゲニストの典型じゃねぇ?
 でもねぇ、開き直るわけじゃありませんが、教師稼業をいたしておりますとね、自分のことを棚上げにしなけりゃ、やってられないときもあるんですよ。特に、私みたいに体の組成の九割以上が「ダメノイド」という酵素に侵されているニンゲンなんかは、タナアゲニストにならなきゃ、何も言えませんよ、ホント。
 それにですね、自分のことを棚上げにして、大事だと思うことを人に向かって発言する勇気を持つことが必要なときもあるじゃないですか。
 上掲の辞典にも「タナアゲニスト」の次に「タナアゲニズム」という項目があることを見落とすわけにはいかない。その項目を読んでみよう。「「タナアゲニスト」からの派生語。① 社会現象として広く観察されるタナアゲニスト的な態度のこと。例「この教団はーに深く侵されている」② 自分のことはひとまず棚上げにして、誰も口にしようとしない真実を公共の場で発言する勇気ある態度、あるいはそのような態度を信条とすること。例「ーが社会を変えるきっかけになることもある」」
 ちなみに、この項目の末尾には、参照項目として、「パレーシア」「ミッシェル・フーコー」が挙げられている。












隠れ「自己ファースト」な人たちは厳しい現実から眼を背けるために美辞麗句の美酒に酔う

2019-12-18 23:59:59 | 雑感

 今日の記事の異様かつ意味不明な長いタイトルをご覧になって、思わず気を唆られ、うっかりこのページにアクセスしてしまった不幸な犠牲者の方たちが、もしかしたら、いらっしゃるかも知れません。でも、ご安心ください、拙ブログは悪質サイトではありません(もちろん、一般に、悪質サイトは「これは悪質サイトです」とは表明しないという事実は認めなければならない)。
 ケッコー出鱈目なことを書き散らしている拙ブログではありますが、書いている本人は、いつだって真面目なのです。本人がそう言っているのですから、間違いありません(世の中、それで事が済むのなら、警察も検察も弁護士も裁判所もいらない)。
 ソレハサテオキ、関係各位に迷惑をかけないといういつもの原則にしたがって、書いている本人以外にはほぼ意味不明な一文を弄することをお許しください(そんな怪文は誰も読まない)。
 なんかやたらと「キレイ」な言葉を並べたてる人の話を聴いているときの私の反応は以下の通りです。五分もすると、背中がむず痒くなり、十分経過すると、どす黒い不快な気分が心中に蔓延しはじめ、十五分過ぎると、体に悪寒が走り震えはじめ、二十分を超えると、その場から逃げ出したくなる。それでも我慢して聞き流していると、翌日起き上がれないほど体調が悪くなってしまう、というのはさすがに冗談ですが、ヨウスルニ、それくらい、いやだってことです。
 なんでか。それは、その人が、美辞麗句で身を包み、我が眼を覆い、厳しい現実を見ないようにしていることがわかるからです。なぜもっと率直に自分のダメなところをそのとおりダメだと認められないのだろうか、どうしてそう「キレイゴト」にしたがるのだろうか、そんなことしても決して前には進めないのに。本人はもちろん自分のそうした姿勢を自覚していません。
 そういう人たちは、あからさまに自己中心的に振る舞うことはありません。なぜなら、それは彼らの「美学」に反するからです。が、実のところ、彼らは自己ファーストのナルシストたちでしかありません。他人の話なんか、ほんとうは何も聴いていないのです。当然、そういう人とはこちらも話したくなくなります。コミュニケーションが成り立たないのですから。












年の瀬のゆくえも知らぬ空騒ぎの渦中で ― K先生の玉石混淆随筆集『雪の下草』(刊行未定)より

2019-12-17 23:59:59 | 哲学

 年の瀬も迫り、何かと慌ただしく、落ち着かぬ日々を過ごしております。フランスでは、12月に入って、年金制度改革案に反対する全国規模のストライキで交通機関が大幅に乱れ、ノエルの休暇が迫る中、多くの利用者たちの間に不安と混乱が広がっております。
 それらすべてを醒めた眼で「他人事」として眺めていたいところなのですが、その影響は私個人の生活にも及ぼうとしております。かねてより年末年始の一時帰国のためにこの24日にこちらを発つ予定で、その日TGVでシャルル・ド・ゴール空港まで移動するための切符もとっくに購入済みなのですが、その日TGVがちゃんと運行されるかどうか、現時点では予断を許さず、同僚たちからも別の移動手段を利用する対策を今から講じておくべきとの助言を受けております。
 ストライキという大衆的戦術が現実的な政治的効力を失いつつあるフランスにおいて、現在の運動が改革案を廃案に追い込めるとは私には到底思えず、中長期的観点からも年金制度改革は不可避であり、それを前提とした政府と組合組織連合との間の建設的な議論こそが望まれるわけですが、マクロン政権側には、表向きの言説とは裏腹に、そのつもりはなく、組合側もただ廃案に追い込みたいだけで、代替案があるわけではなし、仮に万が一廃案になったとしても、それは今後のフランス社会をますます不安定にするだけであり、出口の見えない閉塞的社会状況には何の希望の光も差してはきません。
 そんな不安で不確定な時代をこれから半世紀以上も生きていかなければならない若者たちを日々教室で目の前にしていると、ときどき胸が苦しくなります。彼らは何を拠りどころとし、何を信じてこれから生きていくのだろう。そんな彼らに私はいったい何を伝えることができているのか、と俯いてしまうことも一度や二度のことではありません。
 先日、二年生の一男子学生がオフィス・アワーに相談に来ました。以前話題にしたことがある、荻生徂徠の思想の反近代性について質問に来た学生です。彼の家庭は中東国出身です。知的に大変優秀な学生で、日本語能力も秀でています。
 「自分にはフランスという国が合っていません。将来は、日本で暮らしたい、日本で先生になりたいと思っています。そのために今から準備を始めたい。でも、何からどのように始めていいかわかりません」というのが彼の相談の趣旨でした。私に言えそうなことは全部言いましたが、それが彼にとって今すぐ役に立つ具体的な手がかりや将来に対する展望に何らかの指針を示すものになったかどうか、心許ありません。
 後期は、サバティカルで不在の同僚に代わって、二年生の「近現代文学」の講義を担当するので、彼には毎週教室で顔を合わせることになります。彼に対してだけではなく、担当するすべての講義を通じて、学生たちに、彼らがこれからの長い人生を生きていくうえで大切なものとなる何かに触れる機会を提供できればと心から願っております。













我が講義の試験の採点基準は、「自分のことを棚に上げること」がその根底に在る ― K先生の『老残風狂日録』(私家版)より

2019-12-16 21:56:28 | 講義の余白から

 「自分のことを棚に上げること」― 履歴書の特技欄には必ずこう書くことにしている。というのはもちろん嘘である(てか、そもそも日本式の履歴書なんて久しく書いてないし)。でも、事実として、年間を通して自分のことを棚に上げっぱなしにして(そして、今では、上げたことさえ忘れ果て、棚の上で自分がホコリを被っている体たらくで)、日々辛うじて、息も絶え絶え、キリギリス的に生きている。
 そうでもしなければ、余は(って、あんたいつからソーセキになったん?)、学生たちに顔向けができぬ(おっ、コバヤシヒデオまがいじゃん。でも、それって、おかしくねぇ? だって、こんな体たらくの教師の授業を受けなければ卒業できない学生たちの方こそ、いい面の皮じゃねぇ?)。
 要するに(って、ぜんぜん論理的じゃないんですけど)、学生たちに向かっている時の私は、ダメな自分をひた隠しに隠し、ただひたすら偉そうな御託を、真理めかして(だって、「ポスト真理」の時代ですもんって、意味不明)並べているだけの、ウザいことこの上ない、張りぼてクソ爺以外の何物でもないのである。
 それはそれとして(出たぁ~、伝家の宝刀)、学生たちが書いた答案の採点基準は、それが日本語であれフランス語であれ、私的にかなり明確かつ厳格である。以下、それを提示する(って、誰もお願いしてないんですけど……)。
 ただ自分の考えを一方的に述べているだけの場合、たとえその日本語が整然としていても、20点満点で10点が上限、つまりぎりぎり合格、それ以上の点はやらねえよってこと。自分の主張の根拠を示している場合、その根拠の妥当性と提示の仕方に応じて、11~12点。自分の立場とは異なった立場も考慮した上で、相対的に自分の立場を位置づけ、弁護できているとき、13~14点。自分の意見が正しいかどうかではなく、自分の意見も含めて複数の異なった意見をそれぞれに公平に提示し、それらの吟味を通じて「弁証法的」な議論を展開することで、所与として与えられた意見よりよい意見を結論として導き出すことができているとき、15~16点。これ以上の点数は、普通ありえない。











手嶌葵「こころをこめて」に心洗われる

2019-12-15 18:50:30 | 私の好きな曲

 アップル・ミュージックとアマゾン・ミュージックに加入している。ひっきりなしに「オススメ」が更新される。いちいちそれに付き合ってはいられない。でも、その中にふと気になる曲があったりするとクリックする(先方の罠にまんまとかかっているわけである)。そんな仕方で最近その楽曲に出逢ったのが手嶌葵である。
 予備知識ゼロで、今年リリースされた『Highlights from Aoi Works II』を聴き始めて、息を飲んだ。仕事の手が止まった。こんなに人を優しく包める歌声を私はかつて聴いたことがない。最初に聴いたのがこのアルバムの第一曲「こころをこめて」である。この曲は、今年五月に公開された水谷豊監督・出演・脚本の『轢き逃げ 最高の最悪な日』のテーマ・ソングである。映画は観ていない。だから、まったく先入見なしに曲を聴くことができ、たちまち手嶌葵の声そのものに魅了されてしまった。
 単に私が知らなかっただけのことだとしても、こういう「発見」は嬉しい。













日本の特異性を学び、具体的な事例から出発し、普遍的な問いを立てる日々の演習

2019-12-14 23:59:59 | 講義の余白から

 私が担当している授業は、いずれも現代日本社会そのものを対象とはしてない。同僚の一人がそれを対象とした授業を担当しているから、それと被らないようにしないといけない。同僚は、社会学者で、主に現代日本の社会的問題を扱うから、私が担当する「日本文明・文化講座」では、たとえ現代社会に関わる問題を取り上げる場合であっても、それを私独自のアプローチで取り上げるように心掛けている。
 学部最終学年で私が担当している「日本文明・文化講座」は、語学の授業を除けば、日本語のみで行う唯一の授業である。しかし、学生たちのレベルに合わせると、あまり立ち入った話、込み入った話はできない。かといって、フランス語の日本紹介書に書いてあるようなことを繰り返しても、つまらないし、勉強にもならない。
 そこで、日本についてできるだけ新しい情報と動向を参照しながら、学生たちが日本の社会・文化についてより深い理解ができるようになることを狙いとして、授業内容を構成しているつもりだ。
 だが、日本社会・文化の特異性についていくばくかの(しかもしばしば浅薄なものにとどまる)理解を得させるというところにとどまりたくないとも思っている。日本の特異性の理解から翻って、自分たちの社会・文化の問題を見直し、具体的な事例から出発して、より普遍的な仕方で問題を立てることを学んでほしいと願っている。
 それには、私自身がまずその方法論を実践できていなくては話にならないことは言うまでもない。
















遠距離恋愛・「クリスマス・イブ」・一分間のドラマとしてのCM

2019-12-13 23:59:59 | 講義の余白から

 平成時代のいつのころからだろうか、「昭和のかおり」という言葉を頻繁に耳にするようになった。その多くの場合、なんとなく不愉快な気分になっていた。昭和生まれで昭和時代をよく知っている人たちが懐かしさを込めてそう言うのならともかく(私は絶対に使わないが)、昭和末期あるいは平成生まれの若造や小娘どもが「昭和のかおりがするねぇ」とかわかったような口を利いているのを聞くと、そんな簡単に言わないでほしいなあと思ってしまうのは、要するに私がそれだけ年を取ったということでしかないのかも知れない。
 携帯電話が日本で普及し始めるのは1990年代の半ばであるから、それ以前と以後というのは時代区分の一つの指標にはなると思う。「遠距離恋愛」という言葉がいつごろから使われるようになったのか詳らかにしないが、JR東海が88年から92年にかけて展開した「クリスマス・エクスプレス」というCMシリーズは、遠距離恋愛をテーマとしており、それは携帯というアイテムの登場以前のことであった。
 この五作のCMに山下達郎の「クリスマス・イブ」(1983年制作)が音楽として採用され、これが同曲を冬の定番曲にすることにもなった。五作ともCMとして名作(画質はよくないが YouTube で視聴可能)だと思うが、当時17歳の牧瀬里穂を起用した1989年(平成元年)版の出来は特にすばらしい。
 先週、すべて日本語で行っている火曜日の授業の導入として、まず「クリスマス・イブ」をスクリーンに歌詞を映しながら聴かせ、次にこの五作のCMを「一分間のドラマ」と題して連続視聴させ、「遠距離恋愛」という言葉をめぐって当時の「時代の空気」についてシャカイシンリガク的な話を少しした。
 スクリーンにCMを映しているとき、私は学生たちの方を向いたままなので、彼らのCMに対する反応がよくわかる。CMの主人公の女性たちに共感して思わず笑みがこぼれている女子学生が多かった。書き取れとは言っていないのに、画数の多い漢字が並んでいる「遠距離恋愛」を書き取ろうとしてる学生も多かった。彼らの関心の所在が如実にわかっておもしろい。












「講義の合間にJ-POPはいかが?」

2019-12-12 23:59:59 | 講義の余白から

 二時間の授業を途中に休憩を入れずに続けることはこちらとしては別に難しいことではない。しかし、学生の側にしてみれば、その間ずっと集中力を維持し続けることは必ずしも容易なことではない。それはよくわかる。私自身、学生時代、授業とは、多くの場合、睡魔との仁義なき戦い以外の何ものでもなかったから。もし学生が教室で寝ていたとしても、だから、少しも腹は立たないだろうと思う。
 ところが、フランスで教えるようになって二十年余りになるが、授業中にすやすや寝ている学生には出逢ったことがない。おしゃべりが過ぎる学生はいても、爆睡しているような学生を教室で見たことがない。理由はわからない。授業がクソ面白くなくても、だからといって寝ているのはもったいない、だったら、おしゃべりしよう、ってことなのだろうか。
 この推測の可否はともかく、二時間ぶっ通しで席にじっとしたまま人の話を聴くのは楽ではないというのは、文化的差異を超えて、かなり普遍的な「人間的限界」と言えるのではないだろうか。
 そこで、こちらなりに工夫はする。12月に入ってからは、「冬になると日本でよく流れる曲」というテーマで、昭和・平成の風物詩と言ってもいいような定番曲を、日本語学習という名目は維持しつつ、二時間の授業の真ん中の5分間に紹介している。これが好評なのである。先週は、中島美嘉の「雪の華」をスクリーンに歌詞を映しながら聴かせたのだが、皆いたく気に入ったようである。