内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

獄中において、ほとんど希望を失いながらなお陽気さを持ちつづけたらしい」― マルゼルブ最後の日々

2023-06-10 08:42:50 | 読游摘録

 木崎喜代治氏の『マルゼルブ フランス一八世紀の一貴族の肖像』のなかでマルゼルブの最後の日々を叙述している箇所はことのほか美しくかつ感動的だ。かなり長くなるが、そこから二回に分けて摘録しておきたい。

マルゼルブたちがパリへ連行されたさい、村人たちは護送車を追いかけて悲しみの声をあげたといわれる。そして、マルゼルブ村の役員たちは、次のような証明書を作成し、村の議事録に記載し、村役場の玄関に貼付した。
 「ロワレ県
  ピチヴィ郡
  マルゼルブ村
 郡庁所在地であるマルゼルブ村の下記に署名した村長、村議会議員は、下記に名を記した市民の書状によってなされた要求にそって、次のことを証明する。
 市民クレチアン‐ギヨーム・ド・ラモワニョンはつねに人民の権利のもっとも熱心な擁護者であったこと。同人は、革命以来、同人の逮捕の日である霜月三〇日まで、この村においてつねに良き共和主義者として行動したこと。同人は、あらゆる場合において、公民精神を持つことを証したこと。同人は、法律に服することをやめなかったこと。同人は、率先して祖国の防衛者たる市民に援助を与えたこと。同人は、革命の方向に沿わぬいかなる見解もいかなる原理も表明したことはなかったこと。また、同人は、そのもっとも素朴な気質ともっとも非難の余地なき行為によって、つねにこの村の敬意を受けるにふさわしかったこと。」
( « Certifions et attestons que le citoyen Chrétien-Guillaume de Lamoignon s’est montré dans tous les temps le plus zélé défenseur des droits du peuple ; que depuis la Révolution, il s’est toujours comporté dans cette commune en bon républicain jusqu’au 30 Frimaire dernier, jours de son arrestation ; qu’il a donné des preuves de civisme dans toutes les circonstances qui se sont présentées ; qu’il n’a jamais cessé d’être soumis aux lois ; qu’il s’est empressé de fournir des secours à ses concitoyens défenseurs de la patrie ; qu’il n’a jamais manifesté aucune opinion, aucuns principes qui ne fussent dans le sens de la Révolution et qu’enfin il a constamment mérité l’estime de cette commune par les mœurs les plus simples et la conduite la plus irréprochable. » : Jean des Cars, Malesherbes. Gentilhomme des Lumières, Perrin, collection « tempus », 2012, p. 475.)  
 しかし、大革命は、このような一片の紙片に注意を払う時間を持ってはいなかった。マルゼルブたち一同がパリのポール‐リーブル(現在のポール‐ロワイヤル)監獄に送られてきたときの事情について、別の一囚人が語っている。
 「わたしは、一か月まえからポール‐リーブルにいた。わたしは貧しかったので、大事に扱われていたし、老齢なので敬われていた。ある日の夕刻、われわれは興味深い会話でうまく気分をまぎらわせていた。そのとき、突然、マルゼルブが到着したという声がした。もはや、だれも、自分の運命に確信が持てるものはいなかった。マルゼルブの徳をもってしても、自分もその家族をも救うことはできないのだ、と考えたのである。マルゼルブが入ってきた。そして、驚きと悲しみの広がるなかで、われわれのなしたことは、マルゼルブに一番良い場所を空けることであった。かれが冷静なのをわたしは見た。「わたしに空けてくださったこの場所はあのお年寄りの方にあげてください。わたしよりも年をとっていらっしゃると思います。」マルゼルブが指しているのはわたしのことであった。われわれは涙にくれた。そして、マルゼルブ自身も、われわれの感動ゆえにあふれる涙をおさえることができなかった。」
 マルゼルブは、獄中においても、ほとんど希望を失いながらなお陽気さを持ちつづけたらしい。古くからの友人にむかって、「監獄に入れられるなんて、悪い臣民になったものだ」といったと伝えられる。そして、刑場にむかうためにコンシエルジュリから出るとき、眼の悪い七二歳のこの老人はつまずいて倒れそうになった。「悪い前兆だ。ローマ人だったら引き返すのに。」(« Mauvais présage. Un Romain ne serait pas allé plus avant. », Jean des Cars, op. cit., p. 480 )これがわれわれに伝えられているマルゼルブのさいごのことばである。(339‐340頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「もっとも力強くもっとも美しい」政治書簡の一つ ― マルゼルブがルイ一六世の弁護人を買ってでる手紙

2023-06-09 23:59:59 | 読游摘録

 ルイ一六世がいよいよ裁判に付されることが国民公会によって決定されたとき、マルゼルブは、一七九二年一二月一一日、国民公会議長宛に以下のような手紙を送った。

 謹啓 国民公会が一六世にたいして弁護顧問を与えるのか否か、またその選択をルイ一六世に任せるのか否か、わたしは存じません。しかし、そうする場合には、ルイ一六世がもしわたしをその職務のために選ばれるなら、わたしはそれに献身する用意があることを、ルイ一六世に知っていただきたいと考えます。
 わたしの申し出を国民公会にお伝えくださるようお願いはいたしません。国民公会がわたしに関心をいだくほどわたしが重要人物であるとはとうてい考えられないからであります。しかし、わたしは、わたしの主君であった人間の最高会議に二度にわたって招かれたことがあります。当時、この地位はすべての人によって熱心に求められていたものであります。多くの人々がこの職務を危険だと判断しているとき、わたしは主君にたいして同じ務めを果たさなければなりません。もし、わたしが、自分の気持ちをルイ一六世に伝える方法を知っておりましたなら、貴殿にわざわざ書面を送るまでのこともなかったでありましょう。貴殿の帯びている地位からみれば、ルイ一六世にこの考えを伝えるのに、貴殿以上にその手段をもつものはいないと考えます。敬具
               木崎喜代治『マルゼルブ フランス一八世紀の一貴族の肖像』岩波書店、1986年、336頁。

 Citoyen Président,
 J’ignore si la Convention donnera à Louis XVI un conseil pour le défendre et si elle lui en laissera le choix ; dans ce cas-là je désire que Louis XVI sache que, s’il me choisit pour cette fonction, je sui prêt à m’y dévouer.
 Je ne vous demande pas de faire part à la Convention de mes offres, car je suis bien éloigné de me croire un personnage assez important pour qu’elle s’occupe de moi. Mais j’ai été appelé deux fois au Conseil de celui qui fut mon maître, dans un temps que cette fonction était ambitionnée de tout le monde : je lui dois le même service lorsque c’est une fonction que bien des gens jugent dangereuse. Si je connaissais un moyen possible pour lui faire connaître mes dispositions, je ne prendrais pas la liberté de m’adresser à vous. J’ai pensé que dans la place que vous occupez, vous aurez plus de moyens que personne pour lui faire passer cet avis.
 Je suis avec respect, citoyen Président, votre très humble et très obéissant serviteur.
             Jean des Cars, Malesherbes. Gentilhomme des Lumières, Perrin, collection « tempus », 2012, p. 462-463. 

 木崎氏はこの手紙を引用した後にこう記している。

 この手紙は、翌々日、官報上に公表され、心ある人々の驚愕と讃嘆をひきおこした。これはおそらく、これまで人間が書いた政治書簡のなかで、もっとも力強くもっとも美しいものの一つであろう。ルイ一六世はこの申し出を喜んで受け入れた。

 ルイ一六世は、この手紙の二日後、マルゼルブに感謝の言葉を書き送っている。しかし、国王(いや、このときは王位を剝奪され、タンプルの暗い獄舎に収監された囚人でしかなかった)の感謝の手紙はマルゼルブには届かなかった。マルゼルブはこの手紙のことを知らずに、後日タンプルの獄舎でルイ一六世に接見する。もはや自分の処刑は免れがたいことをルイ一六世は自覚していたことがこの手紙からわかる。マルゼルブへの感謝の言葉が記された手紙の冒頭部を引こう。

親愛なるマルゼルブ殿 貴殿の至高の献身にたいするわたしの気持を表現する言葉もありません。貴殿はわたしの願望を先取りしてくださり、七〇歳になった貴殿の手をさしのべて、わたしを処刑台から遠ざけようとされています。わたしがもしまだ玉座を占めているなら、それを貴殿とわかち、わたしに残されている半分の玉座にふさわしくなるでありましょうに。しかし、わたしは鉄鎖しか持たず、貴殿はそれを持ちあげて軽くしてくださるのです。(木崎上掲書、337頁)

Je n’ai point de terme pour vous exprimer, mon cher Malesherbes, ma sensibilité pour votre sublime dévouement. Vous avez été au-devant de mes vœux, votre main octogénaire, s’est étendue vers moi, pour me repousser de l’échaffaud et si j’avais encore un trône, je devrais le partager avec vous, pour me rendre digne de la moitié qui m’en resterait. Mais je n’ai que des chaînes que vous rendez plus légères, en les soulevant.
                                            Jean des Cars, op. cit., p. 465.

 カーの本にはこの手紙の全文が引用されているが、上掲の冒頭部に二箇所脚注が付されており、手紙原文には « octogénaire »(八〇歳(代)の)とあるが、当時のマルゼルブは七一歳であったこと、 現代の正書法では « échafaud » であるが、原文では « échaffaud » と f が重ねらていることが注記されている。

 マルゼルブは、他の二人の弁護人とともに、「ルイ一六世の処刑の日までの五週間、勝算なき戦いのために、文字通り寝食を忘れて没頭する。一七九三年一月二一日、王の処刑の日には、パリの殉教者通りにあるマルゼルブの館のまえには、マルゼルブを讃える民衆のデモがあったといわれる。」(木崎書、337頁)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ルソーにおける「透明な母性愛」への渇仰

2023-06-08 16:55:18 | 読游摘録

 時間的順序は逆になってしまったが、ルソーに「マルゼルブへの四通の手紙」を書かせる直接のきっかけとなったマルゼルブの一七六一年一二月二五日付の手紙の一部を木崎喜代治著『マルゼルブ フランス一八世紀の一貴族の肖像』から若干改変して引用する。

貴殿の生の不幸をなしているこの暗いメランコリーは、病気と孤独によって大きく増幅されていますが、わたしは、それが貴殿にとって自然なものであり、その原因は身体的なものであると考えます。また、他人がそれを知ったからといってご立腹になるべきではないとさえ思います。貴殿の生活方法はあまりにも特異で、しかも、貴殿は、公衆がそれにかかわらずにはいられないほど有名なのです。

Cette mélancolie sombre qui fait le malheur de votre vie, est prodigieusement augmentée par la maladie et la solitude mais je crois qu’elle vous est naturelle et que la cause en est physique ; je crois même que vous ne devez pas être fâché qu’on le sache. Le genre de vie que vous avez embrassé est trop singulier et vous êtes trop célèbre pour que le public ne s’en occupe pas.

 マルゼルブの手紙を引用した後、木崎氏は次のような説明を加えている。

マルゼルブからの手紙を受けとったルソーは、おそらく、マルゼルブの好意に感謝しつつも、自分がかれによってさえ理解されていない、と感じたにちがいない。というのも、マルゼルブはルソーの精神の危機の原因を孤独と病気という物理的なものに帰しているからである。ここで、またしても、透明な母性愛とでも称されるべきものを求めるルソーの渇望がマルゼルブにさし向けられる。つまり、一月四日から二八日にかけて、あの有名な、長文の「マルゼルブへの四通の手紙」が書かれる。ルソーは、この自分の生涯を回顧することを通して、自分の真実を、自分の生き方の真実を示そうとする。そして、この四通の手紙を核として、ルソーさいごの大作『告白』が綴られていく。(121頁)

 そして、四通の手紙は、未完に終わったルソー最後の著作『孤独な散歩者の夢想』の種子でもあったろう。それはさておき、この引用のなかにある「透明な母性愛」という表現はどういう意味で使われているのだろうか。
 ルソーの母親はルソーを産んで九日後に産褥熱で亡くなっているから、ルソーは母性愛を知らない。この欠落がルソーのなかに母性愛への渇仰を産み、その渇仰のなかで母性愛がいわば母なき母性愛として純化された状態を指して「透明な」と形容したのであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


悲しみも空虚も享受する ― ルソー「マルゼルブへの手紙」第三書簡より(後編)

2023-06-07 11:30:45 | 読游摘録

 「マルゼルブへの手紙」の第三書簡の続きを読もう。
 夢想によって歓喜に浸るルソーだが、そのような感動の時間のなかでもときに空想の空しさを感じ、悲しくなることがある。

しかし、そういう状態にありながらも、正直にいえば、ときにわたしの空想のむなしさを考えて急にわたしの魂を悲しませることもありました。たとえわたしの夢がすべて現実になったとしても、それはわたしを満足させてくれることにはならなかったでしょう。わたしはさらに想像し、夢想し、希望したことでしょう。わたしは自分のうちに、なにものも満たすことのできない、説明しがたい空虚をみいだすのでした。どういうことかよくわからないくせに、その必要を感じている別の種類の楽しみのほうへ心が飛び立っていくような気がするのでした。

Cependant, au milieu de tout cela, je l’avoue, le néant de mes chimères venait quelquefois la contrister tout à coup. Quand tous mes rêves se seraient tournés en réalités, ils ne m’auraient pas suffi  ; j’aurais imaginé, rêvé, désiré encore. Je trouvais en moi un vide inexplicable que rien n’aurait pu remplir, un certain élancement du cœur vers une autre sorte de jouissance dont je n’avais pas d’idée et dont pourtant je sentais le besoin.

 しかし、ルソーはそのような悲しみに浸されることさえも感情の享受として楽しむ。

ところが、そういうこともまた楽しいことだったのです。そのときわたしはひじょうにいきいきとした感情と、心をひかれる悲しみにひたされて、その悲しみさえ、それを知らないことを望みはしなかったでしょう。

Eh bien, Monsieur, cela même était jouissance, puisque j’en étais pénétré d’un sentiment très vif et d’une tristesse attirante que je n’aurais pas voulu ne pas avoir.

 そして、夢想の最終段階に入っていく。

やがてわたしは、大地の表面から、自然のあらゆる存在へ、万物の普遍的な秩序へ、すべてを包容している理解しがたい存在者へとわたしの観念を高めるのでした。そのとき、精神はその広大な世界のなかに消え去り、わたしはなにも考えず、理性をはたらかせることも、思索することもしません。私は一種の快感を味わいながらこの宇宙の重みに圧倒されている自分を感じていました。混沌としたそれらの偉大な観念に身をゆだねてうっとりとしていました。想像によって空間のなかに自分を溶けこませようとしていました。存在の限界のなかに閉じこめられているわたしは宇宙のなかで息づまる思いをしていました。できれば無限のなかに跳び込みたいと思っていました。もし自然のあらゆる神秘からその覆いを取り去ってしまったとすれば、あのしびれるばかりの陶酔状態にあって感じたほど快い状況に自分を感じはしなかっただろうと私は信じています。わたしの精神のすべてを捧げてその陶酔に身をゆだねていたのですが、それは、はげしい興奮のうちにあるわたしに、ときどき「おお、偉大なる存在よ、おお、偉大なる存在よ」と叫ばせるだけで、わたしはそれ以上なにを言うことも、考えることもできなかったのです。

Bientôt, de la surface de la terre j’élevais mes idées à tous les êtres de la nature, au système universel des choses, à l’Être incompréhensible qui embrasse tout. Alors, l’esprit perdu dans cette immensité, je ne pensais pas, je ne raisonnais pas, je ne philosophais pas, je me sentais avec une sorte de volupté accablé du poids de cet univers, je me livrais avec ravissement à la confusion de ces grandes idées, j’aimais à me perdre en imagination dans l’espace  ; mon cœur resserré dans les bornes des êtres s’y trouvait trop à l’étroit, j’étouffais dans l’univers, j’aurais voulu m’élancer dans l’infini. Je crois que si j’eusse dévoilé tous les mystères de la nature, je me serais senti dans une situation moins délicieuse que cette étourdissante extase à laquelle mon esprit se livrait sans retenue, et qui, dans l’agitation de mes transports, me faisait écrier quelquefois  : «  Ô grand Être ! Ô grand Être  !  » sans pouvoir dire ni penser rien de plus.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「わたしの空想で黄金時代をつくりあげ」― ルソー「マルゼルブへの手紙」第三書簡より(前編)

2023-06-06 16:07:34 | 哲学

 ルソーが一七六二年一月にマルゼルブに送った四書簡のうちの第三書簡はフォリオ版『夢想』で六頁あまりである。だからけっして長くはないのだが、ブログの一記事の中に全文引くには長すぎる。それに、一気に読んでしまうより、少しずつ読むほうが味わいも増す。今日と明日の記事では、岩波文庫の今野一雄訳(一部改変)と現代表記に改めた仏語原文からの抜粋を交互に並べて味わっていこう。

それにしても、わたしは、ひとりでいるとき、いったいどんなことを楽しんでいたのでしょうか。自分を、世界ぜんたいを、存在するすべてのものを、存在しうるあらゆるものを、感覚の世界にある美しいすべてのものを、知的な世界に想像されるすべてのものを、です。わたしは心を喜ばせるあらゆるものをわたしの周囲に寄せ集めていたのです。わたしが望むこと、それがわたしのたのしみの尺度だったのです。そう、どんなに快楽を愛する人でもそれほどの享楽を経験した人はありません。そういう人たちが現実に楽しんでいることよりもはるかに多くのことを私は空想によって楽しんだのです。

Mais de quoi jouissais-je enfin quand j’étais seul ? De moi, de l’univers entier, de tout ce qui est, de tout ce qui peut être, de tout ce qu’a de beau le monde sensible, et d’imaginable le monde intellectuel  : je rassemblais autour de moi tout ce qui pouvait flatter mon cœur, mes désirs étaient la mesure de mes plaisirs. Non, jamais les plus voluptueux n’ont connu de pareilles délices, et j’ai cent fois plus joui de mes chimères qu’ils ne font des réalités.

それからはもっとゆっくりとした足どりで、どこかの森のなかの野生のままの場所、人間の手が加えられたものは見られず、束縛や支配を感じさせるものはなにひとつ見あたらない人気ない場所、自分が最初にはいりこんだと思われるようなところ、自然とわたしとのあいだによけいな第三者がはいりこんでいないような隠れたところをもとめて行きます。そういうところでこそ自然はわたしの目にいつも新しい、すばらしい光景をひろげているように思われました。

J’allais alors d’un pas plus tranquille chercher quelque lieu sauvage dans la forêt, quelque lieu désert où rien ne montrant la main des hommes n’annonçât la servitude et la domination, quelque asile où je pusse croire avoir pénétré le premier et où nul tiers importun ne vînt s’interposer entre la nature et moi. C’était là qu’elle semblait déployer à mes yeux une magnificence toujours nouvelle.

やがてわたしはそこに自分の好みにあった存在を集め、臆見や偏見、あらゆる人為的な情念を遠くへ追いはらって、自然の隠れ家に、そこに住むにふさわしい人々を移し入れるのでした。そういう人たちで楽しい仲間をつくり、自分も当然それに加わる資格があると思っていました。わたしの空想で黄金時代をつくりあげ、わたしの生涯のなつかしい思い出をのこしてくれたあらゆる情景と、これからもわたしが心に願うことのできるあらゆる情景とでその美しい日々をみたし、人間のほんとうの喜び、じつに甘美な、純粋な喜び、こんにちではもう人々から遠いところにある喜びを考えて涙を流さずにはいられないくらいの感動を味わうのでした。

Je la peuplais bientôt d’êtres selon mon cœur et, chassant bien loin l’opinion, les préjugés, toutes les passions factices, je transportais dans les asiles de la nature des hommes dignes de les habiter. Je m’en formais une société charmante dont je ne me sentais pas indigne. Je me faisais un siècle d’or à ma fantaisie et, remplissant ces beaux jours de toutes les scènes de ma vie qui m’avaient laissé de doux souvenirs, et de toutes celles que mon cœur pouvait désirer encore, je m’attendrissais jusqu’aux larmes sur les vrais plaisirs de l’humanité, plaisirs si délicieux, si purs, et qui sont désormais si loin des hommes.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ルソーのマルゼルブ宛の自伝的な四つの書簡

2023-06-05 23:59:59 | 読游摘録

 夢想と聞くと、ジャン=ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』を想起される方もいるだろうと想像する。
 ルソーがこの未完の最後の著作のなかで展開した夢想による自然との一体化という方法は、『夢想』が書き始められる一七七六年からさかのぼること十四年、一七六二年一月にマルゼルブ宛に送られた四つ書簡のうちの二六日付の第三書簡にすでに示されている。
 このマルゼルブ宛の四書簡は、『夢想』の補遺としてよく収められている。ガリマールのフォリオ・クラッシック版の『夢想』で二十頁ほどである。この四書簡に解説を付した安価なポケット版もある。ルソーの自伝的文章を集めたプレイヤード叢書の一冊にも当然収められている。ネット上でも無料で閲覧・ダウンロードできる。邦訳は、岩波文庫『エミール』の下巻に付録として収められている。サント・ブーヴは『月曜閑談』のなかで、ルソーはこれら「マルゼルブへの手紙以上に美しいものを書いたことはなかった」と述べている。
 宛先のマルゼルブについて、日本では、フランス十八世紀の専門家でもなければ、ほとんど知られていないのは残念である。言論・思想の自由の危機が叫ばれている今日の日本で、ルイ一五世治世下で出版統制局長として言論・思想の自由を擁護したマルゼルブの生涯・思想・業績から学ぶことは少なくないと思うからである。私の知る限り、日本語の一般書でマルゼルブのモノグラフィーは木崎喜代治著『マルゼルブ フランス一八世紀の一貴族の肖像』(岩波書店、一九八六年)の一冊だけである。絶版で古書でしか入手できない。この良書に依拠して、このブログで二〇一四年十二月十九日から三日連続でマルゼルブのことを話題にしているので、そちらを参照していただければ幸いである。古い名門貴族の家に生まれ、啓蒙の世紀において寛容の精神を体現した大人物であるマルゼルブに対して、ルソーは深い信頼と尊敬の念を抱いていた。
 ルソーとマルゼルブとの間には少なからぬ書簡のやり取りがあり、木崎書によると、ルソーからマルゼルブへの手紙が五三通、マルゼルブからルソーへの手紙が三四通、今日まで保存されている。失われた手紙も多数あるようだ。「両者の関係は広く深く重い」と木崎氏は言う(107頁)。
 一七六二年一月に矢継ぎ早に書かれた四通のルソーの手紙は、その前年の十二月二十五日付けのマルゼルブの手紙への返事として書かれた。その手紙を読んで、ルソーは、マルゼルブがパリの文学者連中やルソーのかつての友人たちが言いふらしているルソーについての讒言を信じてしまっていることに深く傷つく。その誤解を解くために、ルソーは、これら四通の手紙のなかで、ほんとうの自分の姿を描き出そうとした。
 この四通はルソーにとってもかけがえのない文章だったようで、同年の十月、マルゼルブにそれらの写しを送ってくれるように頼んでいる。その写しをルソーは亡くなる一七七八年まで大切に保管した。その束の上には、「わたしの性格をありのままに描き、一切の行動の本当の動機を語っている」(« contenant le vrai tableau de mon caractère et les vrais motifs de toute ma conduite »)と自筆で書かれている。
 明日の記事では第三書簡を読んでみよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


精神の健康法としての夢想

2023-06-04 23:59:59 | 雑感

 夢は思い通りにならない。少なくとも私の場合はそうである。覚醒時あるいは入眠時になんらかの「儀式」を行うことで夢の内容を制御できるのかも知れないが、私にはその手立てがわからないし、それはそれで自分の心を誤魔化しているようにも思える。
 夜毎の夢の内容は、細部において異なるが、筋書きはほぼ同工異曲である。時間に間に合わない、目的地にたどり着けない、帰りたい場所への道順がわからない、ほぼすべて、このいずれかの状況のなかで焦り苦しむ。目覚めると冷や汗でびっしょりというような悪夢は見たことがないが、目覚めてうんざりするような夢は数えきれない。
 夢は私にとって煉獄なのかもしれない。自分の犯した罪(といっても法的に裁かれるべき犯罪ではないが)を忘れるなと、夜毎に小さな試練に晒されているということなのかもしれない。目覚めてすぐに細部は忘れてしまう。面白くない気分にちょっとのあいだ包まれるくらいで、日常生活にはなんの支障もない。
 夢(rêve)は思い通りにならないが、夢想(rêverie)は思いのままだ。いや、自分の好きなように思い描ける、というよりも、夢想そのものがその世界を自由に時間に捕らわれずに繰り広げる。思考(penser)による統制はない。想像力には自ずと限界があるが、夢想のなかではその限界を感じることはない。
 コンディヤックは『人間認識起源論』(Essai sur l’origine des connaissances humaines)のなかで夢想についてこんなことを言っている。

Dans ces moments de rêverie, […] on se plaira, par exemple, beaucoup plus dans une campagne, que dans les plus beaux jardins. C’est que le désordre qui y règne, paraît s’accorder mieux avec celui de nos idées, et qu’il entretient notre rêverie, en nous empêchant de nous arrêter sur une même pensée.

夢見心地のときには、美しい庭園よりも、野原の方を人ははるかに喜ぶのである。というのはこの野原を支配している無秩序が、われわれの観念の無秩序と共鳴し、われわれが一つの同じ思考にとどまらないように、夢見心地のまま、そっとしておいてくれるからである。
                       『人間認識起源論』、古茂田宏訳、岩波文庫、下巻、253頁、一部変更。

 睡眠中の夢が思うようにならないのならば、日毎に夢想に遊ぶ時間をもつことで心の均衡を維持するのも一つの精神の健康法と言えるのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


六月下旬の二つの研究発表について ― メルロ=ポンティ・谷崎潤一郎/西田幾多郎・瀧澤克己

2023-06-03 15:17:08 | 哲学

 今月二三日と二四日にパリで二つの異なった発表をする。
 前者はパンテオン・ソルボンヌの若手現象学研究者たちのアトリエで「陰翳の現象学」について話す。過去に何度か日本語とフランス語で発表したことがあるテーマだが、メルロ=ポンティの『眼と精神』に示された存在論の例解を谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の記述の中に読み取り、それを通じてメルロ=ポンティの存在論の射程を拡張することがその狙いである。アトリエの主催者から、日本の哲学と現象学との関わりについて何か話してくれないかという依頼を今年の一月に受けて、提案したのが上記のテーマである。
 後者は IFRAE(Institut français de recherches sur l’Asie de l’Est)の日本哲学研究会で瀧澤克己が西田哲学について書いた最初の論文について話す。この三月にやはり IFRAE で田辺元の哲学についての研究集会が開催され、そのときは瀧澤の田辺哲学批判について話したので、今回がフランスにおける瀧澤克己についての最初の研究発表ということにはならないが、両者あわせてフランスにおける最初の紹介ということにはなるだろう。
 前者については、すでに出来上がっている原稿を今の発表のためにアレンジするだけで済むので準備には数日あれば足りる。現象学の専門家たちが相手なので、「陰翳」が現象学にとって興味深いテーマになりうることを強調するためにいささか論考を補強しておきたいと思っている。
 後者については、瀧澤がフランスではまだほとんど知られていないこともあり、最初の論文「一般概念と個物」(法蔵館の『瀧澤克己著作集』第一巻に収録されている二十頁ほどの論文)に対象を限定し、その精読を通じて、当時六十三歳の西田が二十四歳の無名の哲学徒瀧澤に論文発表後直ちに書簡を認め、そのなかで「これまでこれくらいよく私の考えをつかんでくれた人がないので大なる喜びを感じました。はじめて一知己を得た様に思いました」というきわめて例外的な賛辞を送ることから始まる両者の哲学的交流の出発点が那辺にあるのかを示す。
 それぞれまったく独立に構想された発表内容で、思想史的な関心からも両者に重なるところはないのだが、奇しくも、『陰翳礼讃』の前半が雑誌『経済往来』に発表されたのも瀧澤の上掲論文が岩波書店の雑誌『思想』に発表されたのも同じ一九三三年(昭和八年)であることにさきほど気づいた。前者が十二月、後者が八月である。同年三月に日本は国際連盟を脱退している。だからどうということもないのだが、当時の時代の空気をもう少し探ってみるのも面白いかも知れないとは思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「命なりけり」日毎のエクゼルシス(exercices)― 今日からブログ十一年目

2023-06-02 09:24:42 | ブログ

 二〇一三年六月二日にこのブログを始め、昨日で丸十年になりました。ごく短い記事や引用だけという日もありましたが、昨日の記事の投稿後、とにかく十年間一日も休まずに投稿できたことにいささかの感慨を覚えました。
 中身はともかく、毎日投稿できたということは、続けようという意志だけで可能なことではなく、それは恵まれたことであり、たとえ他の人にはなんの意味もないことだとしても、私自身にとっては「命なりけり」にほかなりません。
 一月二四日にジョギング中に転んで肋骨に罅が入ったことは、自分の体への配慮の仕方に少なからぬ変化を引き起こしました。体の「声」により注意深く耳を傾けるようになったのです。わずかな違和感にも敏感になり、その推移を継続的に見守るようになりました。
 この姿勢は、三月三〇日に起こったもう一つの小さな出来事によってさらに日常化されました。この出来事はこれまでこのブログで話題にしませんでしたので、ここに少し詳しく記しておこうと思います。
 三月三〇日朝、乗るつもりだった電車に乗り遅れまいと、自宅から最寄りの路面電車の駅まで走った直後、駅のホームで急激な目眩に襲われ、ほんの数秒でしたが、気を失い、気がついたら仰向けにひっくりかえっていました。六十五年近く生きてきて初めてのことでした。幸い、背負っていたリュックがクッションになって、どこも強く打ったところはなく、かすり傷ひとつありませんでしたが、気を失ったことには相当にショックを受けました。
 我に返ったとき、どちらかといえば心地よい脱力感のなか、今にも雨が降り出しそうな曇天が視界いっぱいに広がっており、仰向けに倒れたまま、自分がなぜそんな姿勢でいるのか一瞬わからず、数秒後になってやっと、急激な目眩に襲われて目の前の手すりにしがみつきそれに耐えようとして耐えきれず転倒したのだと了解できました。
 立ち上がって振り向くと、倒れていたときの頭部の位置のさらに向こう側にヘッドホンと帽子が落ちていましたから、それなりの勢いで倒れたらしく、まったく受け身の姿勢を取ることもできなかったようです。もし荷物の詰まったリュックを背負っていなければ、後頭部を地面に強打していたかも知れません。
 幸い、その後再び強い目眩に襲われることはなく、その日の大学の授業も平常通り行うことができました。翌日と翌々日は、ジョギングは休み、ゆっくりと歩くだけにしました。そのかぎりでは何の違和感もなく、他に体の変調を感じることもありませんでした。
 ただ、ふと振り向いたり、ちょっと俯いたり、頭をさっと振り上げたり、上体を急に捻ったりするとき、一瞬軽い目眩に襲われることがその後一ヶ月ほど続きました。気にはなりましたが、日常生活にも授業にも支障はなく、気を失った日の三日後にはジョギングも再開し、以後、一日だけウォーキングだけにした以外は、今日まで一日も休まずにジョギングを続けています。
 特に、五月に入ってからは、目眩を感じることもまったくなくなり、体調はすこぶるよく、三回ハーフマラソンの距離を走り、月の走行距離が三九二キロに達し、これは私史上月間最高記録でした。
 ジョギングにせよ、ブログにせよ、規則はただひとつ。無理せず続けられるかぎりは毎日続ける。それだけです。到達を目指す目標はありません。日々の積み重ねによって何かを獲得しようということもありません。日毎のエクゼルシス(exercices)、それがすべてです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


水無月さん、私はあなたが一年で一番好きかも知れません

2023-06-01 21:01:10 | 雑感

 日本とフランスの季節感は、言うまでもありませんが、かなり違います。日本では梅雨に相当する時期、フランスは、地域にもよりますが、大体において、とても快適な季節です。それが今です。
 今日、水無月朔日、なんと気持ちのよい一日だったことでしょう。気温は日中二五度ほどまで上がりましたが、湿度は五〇%以下、快晴、微風。卯月が寒春、皐月もやや不順だっただけに、ああ、やっと来てくれましたね、と、碧空を見上げ、好天を寿ぎながら、今日の昼過ぎ、一時間余り、十二キロ、ジョギングしました。
 今月下旬、パリで、二日連続で研究発表します。その一つはすでにほぼ準備完了なのですが、もう一つはこれから準備に取り掛かります。フランスでは初めて取り上げられるテーマです。西田幾多郎の後期の哲学が対象なのですが、それに対する視角としては初めての試みです。