人それぞれ好きになったドラマの見方は違うものだから、あくまでこれは自分個人の感想ではあります。
それを重々承知のうえでも・・・今週のドラマ「カーネーション」には耐え兼ねる部分が多し。
・・・正直かなり落胆。
というか、ひどい落胆。
「ええっ?まさか」という落胆。
尾野真千子さん自身に恋してしまったゆえのこともあるが、それでも、自分の勘違いでなければ・・・
このドラマの基本線であり醍醐味であったのは、糸子の生き様だったのでは無いのか?
自分が行きたい・行くべきと思う道に何が何でも行く、そういう意志の現われが小林薫さん演じる親父さんとのいさかいだったり、家族とのわあわあしたゆれ動きだったり・周囲含めた温かい支援だったり・・・
笑ったり泣いたりしながら、糸子=尾野真千子さんと取り巻く人々が生き生きと輝く姿・活気が、このドラマ「カーネーション」の魅力だったのでは無いのか?
今週月曜日以降、このドラマ自体の中で、焦点はすっかり三人娘に行ってしまい、いきなり糸子は脇に追いやられてしまった。
とても違和感あるのが、糸子をあえて奥に配置して、会話のキャッチボールの中にも入らず、話の展開の目線の中心線から外れたという点。
そこに糸子は居るのに、居ないようなヘンな感じが、画面から伝わってくる。
今までとは明らかなる温度差。
違うドラマを見ているような感覚。
確かに時代は、昭和30年近くの戦後一番安定した時代に移ったものの、いきなり「弛緩」し切った様相は、この「カーネーション」の4ケ月間の魅力をまるで捨ててしまったように見えてしまう。
非常に残念である。
この後、どう展開していくのかは分からないが、みんなを魅了してきた世界が壊れるならば、見るのをやめたい心境も生まれるかもしれない。
今週、実家に寄った際、同じように毎日「カーネーション」を楽しみにしている老齢の親も同じような気持ちだったようである。
老親「なんだか、そのへんにある普通のドラマになっちゃったね。つまらない。」
自分「まったく。。。。」
老親「あんな時代に、立体裁断なんて難しいものを実践したおかあさんは本当にえらいねえ。
しょせん、妖怪みたいなぶさいくな三人娘なんか親のスネかじりなのが、ようく分かる。」
自分「どうやら・・・歳を取ったら、糸子は夏木マリに変わるらしいよ。」
(夏木さんは女優として優れていると思いますが、それとこれは別)
老親「やだね。あの人(尾野さん)だから楽しみだったのに。」
自分「んんんんっ・・・・・(σ′д`。)。」(うなる)
このドラマのDVDのBOXセットをAmazonで予約しようと思っていたが、やめて別々に購入するかなあ・・・
と悩み出している。
「BOXセットゆえの特典もあるだろうからなあ・・・・。」
「恋した人が輝いた瞬間を収めた、愛するドラマだったし・・・・。」
そう思いつつ。
どうせならば・・・10月~1月終わりまでのお話し+中間を省略形にして+最後だけをくっつける。
そういう手術をほどこして、それを6ケ月の構成とすべきだったのではないか?
そんな風に思ってしまう。
原作に忠実であったり・三人娘をあえて描く必要なんかどこにもない。なぜ、現実をなぞらねばならないのか?
本来あったスジから、関係の無いところに力点を分散しはじめたことに、どうも納得が行かない。
とはいいつつも、収録は既に終わっている。
仕方がないので、尾野真千子さんが出る限りは全面肯定で、彼女が出る良い部分だけを見て過ごそうかと思いつつある。
稀有な出来の、思い入れ深いドラマだったゆえ、複雑な気分になってしまったのは事実。
PS:大晦日の日の朝を振り返っていた。
宿泊した本郷の古旅館・朝陽館で、無理矢理、MZ師・ハブ噛み師匠を引きずりこんで見た「カーネーション」の朝の特番。
舞台裏での糸子さん=尾野真千子さんのリラックスした様、笑顔がステキでこちらも笑顔でしあわせだったのを想い出していた。
「おいおい、黙ってこれを見るんだ!」とMZ師に無理矢理、酔っ払いの絡みのように強要した日も近くて遠い日。
幸福は、あっという間に、ささっと足早く逃げ去る。
そのときそのときの幸福を逃がさずに「そのときしか無い」という意識で、「今」を味わわねばならない。
そう意識を新たにする今日。
それを重々承知のうえでも・・・今週のドラマ「カーネーション」には耐え兼ねる部分が多し。
・・・正直かなり落胆。
というか、ひどい落胆。
「ええっ?まさか」という落胆。
尾野真千子さん自身に恋してしまったゆえのこともあるが、それでも、自分の勘違いでなければ・・・
このドラマの基本線であり醍醐味であったのは、糸子の生き様だったのでは無いのか?
自分が行きたい・行くべきと思う道に何が何でも行く、そういう意志の現われが小林薫さん演じる親父さんとのいさかいだったり、家族とのわあわあしたゆれ動きだったり・周囲含めた温かい支援だったり・・・
笑ったり泣いたりしながら、糸子=尾野真千子さんと取り巻く人々が生き生きと輝く姿・活気が、このドラマ「カーネーション」の魅力だったのでは無いのか?
今週月曜日以降、このドラマ自体の中で、焦点はすっかり三人娘に行ってしまい、いきなり糸子は脇に追いやられてしまった。
とても違和感あるのが、糸子をあえて奥に配置して、会話のキャッチボールの中にも入らず、話の展開の目線の中心線から外れたという点。
そこに糸子は居るのに、居ないようなヘンな感じが、画面から伝わってくる。
今までとは明らかなる温度差。
違うドラマを見ているような感覚。
確かに時代は、昭和30年近くの戦後一番安定した時代に移ったものの、いきなり「弛緩」し切った様相は、この「カーネーション」の4ケ月間の魅力をまるで捨ててしまったように見えてしまう。
非常に残念である。
この後、どう展開していくのかは分からないが、みんなを魅了してきた世界が壊れるならば、見るのをやめたい心境も生まれるかもしれない。
今週、実家に寄った際、同じように毎日「カーネーション」を楽しみにしている老齢の親も同じような気持ちだったようである。
老親「なんだか、そのへんにある普通のドラマになっちゃったね。つまらない。」
自分「まったく。。。。」
老親「あんな時代に、立体裁断なんて難しいものを実践したおかあさんは本当にえらいねえ。
しょせん、妖怪みたいなぶさいくな三人娘なんか親のスネかじりなのが、ようく分かる。」
自分「どうやら・・・歳を取ったら、糸子は夏木マリに変わるらしいよ。」
(夏木さんは女優として優れていると思いますが、それとこれは別)
老親「やだね。あの人(尾野さん)だから楽しみだったのに。」
自分「んんんんっ・・・・・(σ′д`。)。」(うなる)
このドラマのDVDのBOXセットをAmazonで予約しようと思っていたが、やめて別々に購入するかなあ・・・
と悩み出している。
「BOXセットゆえの特典もあるだろうからなあ・・・・。」
「恋した人が輝いた瞬間を収めた、愛するドラマだったし・・・・。」
そう思いつつ。
どうせならば・・・10月~1月終わりまでのお話し+中間を省略形にして+最後だけをくっつける。
そういう手術をほどこして、それを6ケ月の構成とすべきだったのではないか?
そんな風に思ってしまう。
原作に忠実であったり・三人娘をあえて描く必要なんかどこにもない。なぜ、現実をなぞらねばならないのか?
本来あったスジから、関係の無いところに力点を分散しはじめたことに、どうも納得が行かない。
とはいいつつも、収録は既に終わっている。
仕方がないので、尾野真千子さんが出る限りは全面肯定で、彼女が出る良い部分だけを見て過ごそうかと思いつつある。
稀有な出来の、思い入れ深いドラマだったゆえ、複雑な気分になってしまったのは事実。
PS:大晦日の日の朝を振り返っていた。
宿泊した本郷の古旅館・朝陽館で、無理矢理、MZ師・ハブ噛み師匠を引きずりこんで見た「カーネーション」の朝の特番。
舞台裏での糸子さん=尾野真千子さんのリラックスした様、笑顔がステキでこちらも笑顔でしあわせだったのを想い出していた。
「おいおい、黙ってこれを見るんだ!」とMZ師に無理矢理、酔っ払いの絡みのように強要した日も近くて遠い日。
幸福は、あっという間に、ささっと足早く逃げ去る。
そのときそのときの幸福を逃がさずに「そのときしか無い」という意識で、「今」を味わわねばならない。
そう意識を新たにする今日。