こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年11月19日 木曜日 「雑記帳 GRADATED GREY」

2015-11-19 22:42:36 | 雑記帳

11月18日 水 
夜明け後五時台のアラーム。音と意識は何度もあちらとこちらを漂う。
高台に昇りてっぺん屋根からたなびく雲、その横広い景色真ん中には、起立し数秒おきに光を放つ塔。
東墨田の清掃工場の塔は、この朝やけに厳然たる主張をする。その姿が朝焼けに鮮やか見える。

昨年歩き倒したすみだ全域。そこで肉体で解することが出来た川に沿う場所。
この歳になって、やっと東側東京の過去からのつながりを肉体に。体内で全体像が結ばれた。
生地・三ノ輪から千住域、山谷吉原、荒川地区方面、橋を渡って墨田・向島・玉ノ井とその周辺等々。一帯を貫く一枚の絵が脳に描かれた。

朝のゴミ詰め、茶を煎れすすり服薬、朝風呂。
外に出ると朝もやが漂い、シャッターを切る光の輪郭をぼやかす。

歩くに向かないテラテラの革靴風合成皮革がきつい。こんなクツを履かねばならない公的儀式の日も、もうおしまいにしよう。
この日、ふだんは選ばない経路を辿り、都心の規律に従う。人ごみ。
葬列を成し行列行進する連中は、電車で・駅で見事に互いに無言でもぶつからず、交通整理を自発的に行う。

こういう世界空気が距離置いて見えるほどに、ある種の毒はすっかり抜けてしまった。
どれくらいぶりかのネクタイが苦しい。
耳からはYMO「カモフラージュ」。
ギャヴィン・ブライアーズ「オマージュ」、シャドウファクス「ゴーストバード」等。
白々しい世界を寸分だけ離れるべく、途中脱線し、露地で一服点ける。

かつての東京ウォーターフロント、バブル残滓は赤字を日々垂れ流しながら、それを隠しているつもりで堂々と未だ在る。
工場に漂う名残と匂いは自らの救いでも、レジャーランドと繋がる地区は無駄な建造物ども。そんな臨海地区で丸一日仕事。時代遅れのコンパニオンが痛々しい。

人間のえげつなさ下品さのカルマ。
二千十五年のびじねす(商売)、女子力と自ら言う者の価値と表層。
営業は水商売と同じ。説教臭い男の暑苦しいうんちくよりも、惹きつけるいやらしいカラダと色気さえあれば、カベは容易に乗り越えられる。
あちこちで見られるエロス的結合。ネットがエロで発展したように、くだらんうんちくより女にねだられる方がモノは売れる。

いっとき”社畜”という言葉がハヤッたが「畜」とは失礼千万。
(電通が産み出した首からカードぶら下げスタイル、その連中のみっともない風景が思い出される。)
それで思った、”社犬(しゃけん)”でどうだろう?しかし「しゃけん」とは車検みたいだし、畜を使わない分・語感に荒々しさや強さがない。頼りがない。
「脱社犬」。なにか間抜けでユーモラスだが、それくらいで良い。
この「社」は、会社の社であり、社会の社である。
忌み嫌いなものたち=ほとんど。

仕事を終えて外に出ると土砂降り。月島へ向け走るタクシー。
雨を吹き飛ばしながら走る。曇るガラス越しに、渡る川向こうのレインボーブリッジがかすむ。

見舞いにいく、そのたび会話をしていく。
意識は明白だ。ただ病室に居なければいけない時間が長くなると、場と時間を超えてしまう。

「夜にそこにお前が居た」と言われる。
「2人で立っていただろうに。」

その2人は誰なの?そう聞く。
「その日によって変わるんだ。昨夜はお前と女。
別の日は別の人がつっ立っている。そういうものさ。」

「さっき来た看護婦さんは、その冷蔵庫にある残り食材で料理を作るらしいよ。
夜中にみんなで食べるんだ。」
冷蔵庫にはペットボトルなど水類しか入っていない。家の寝室と病室がだぶっている。
これは別に意識がおかしいのではなく、投薬の反作用でよく現れる現象と医師に説明を受ける。

人が幻と、どこをどう認識して境目の判断を下すのだろうか?
先日、主治医に訊いてみた。それはわたし自身のことについて。今一度の再確認。

文化圏や社会背景、精神病判断は欧米基準にまずは照らすが、日本的風土には適用できない部分が大いにある。それを補うのは会話を通じた身振り手振り。或いはある種のカン。

私は、昔出会った色川(武大)さんの「狂人日記」を引き合いに、尋ねてみる。
「・・・でも結局、自らが吐露/言語化しなければ、各々の中で荒れ狂う生身、
その放置された個自身が描く像は共有し合えないのではないか?
しゃべくり上手でなければ、自らの状態さえ伝えられないんじゃないか?」

しかし、結論は砂に埋もれる。
「今まで長く話し付き合ってきた”あなた”には、明らかな病像と呼べるものは無い。」
そう断言される。

それはお墨付きと楽観視も出来ようが、短絡的で安易な結論でもある。
これらの受け取り方は、安易な病名でも云われて、つまりは犯罪者の刻印でも押された方がよほどマシだという、それである程度の安堵を覚えたい一心なのかもしれない。
幾度となく、嫌というほどこんなぎくしゃくとしたやりとりは、今までの数十年ところどころにあった。
結局何も明確な気の置き場を見失い、容易にくくれず像を結べない居心地の悪さに戻るだけ。
よくあることである。

■YMO 「灰色(グレイ)の段階」1981■
(1981年11月21日、テクノデリック)
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4 コメント

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Unknown (ゴウ)
2015-11-20 21:02:07
かたちんばさん、じつにおひさしぶりで書き込みさせていただきます。
とくになにかあったわけではないのですが、一時期コメント
書き込みが続いていたので、なんだか遠慮してしまったのです。

今回は、かたちんばさんにお勧めの件がありまして。

深川の現代美術館、新しい展示にはもう行かれましたか?
オノ・ヨーコの展覧会はべつにいいと思いますが(笑)、
「東京アートミーティング」の展示は、YMOの特集コーナー
があって懐かしかったですよ。テクノデリックで使用した
衣装や、マボロシの横尾さんタキシード(!)、増殖人形など。
ミュージアムショップでは、教授の未来派野郎なんかの
シングルが売られてました。
あと、常設展では、大友良英の展示がすごかったです。
広いフロアに50台ほどのポータブル・レコードプレイヤーが
ばらばらに置かれ、それぞれ違った仕掛けで違った音を、
ランダムに放つのです。音の出る時間は10秒そこらなので、
会場のあちこちで機械たちが好き勝手に「おしゃべり」する
感じ、それはかつて細野さんがイタリアの庭園でやった
「エンドレス・トーキング」のコンセプトに似ていて、感慨深い
ものがありました(ただの摩擦音ばかりなので曲になってませんが)。
そんな機械たちの間を歩きながら「おしゃべり」を聴いてると、
何時間でもいられそうです。
月島までの行きかえりにどうでしょう?
(そういえば細野さんは隣の勝どきに在住で、門仲に
立ち寄るのが好きだ、とどこかで話されてましたね)

あと、糸井さんの「ほぼ日」の「荒木さん。」は読まれましたか?
http://www.1101.com/araki_nobuyoshi/index.html

どれだけ歳をとっても変わらないものが通底してる、って、
見てるこちらも心強いですよね。

また長くなりました。そろそろやっと寒くなってきました。
かたちんばさんもお体冷やさないよう、お気をつけください。
一方的に勝手なことばかり、失礼しました。それではまた。

追伸:
「夜にそこにお前が居た」のくだり、鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」
を思い出しました。すごく似たシーンがあるのです。
現世とまぼろしとを行きかう、妖しい道行き。またまた失礼しました。
返信する
Unknown (かたちんば→ゴウさんへ)
2015-11-21 23:52:38
いろんな情報ありがとうございます。
まだ荒木さんのインタビュー全部読めていませんが、イントロだけでもお腹いっぱいで、大いに刺激を受けそうです。

書いていただいた諸々の展覧会、さてどれをいつ。。。と見計らってはいました。
モネ展などいくらでもピュッと行ける距離を四六時中通過してるんですけど、やはり”人だかり”とか”並ぶ”とかあるとココロ穏やかに見られないんです、性格上。

けっこうそのカベが厚く感じて、それだけでため息出ることがあります。でも江口寿史さんの展覧会なども含めて、観たいものがたくさんです。

ゴウさんが書いてくれた50台のプレイヤーのバラまかれた姿、視たくなります。コメントを読んでじぶんの頭に浮かんだのは1983年イーノがラフォーレ赤坂で行ったエキシビションでした。細野さんは、そこからの影響ですね。

細野さんが今暮らす場所はそれとなく知っていましたが、なかなか遭わないモノですね。
返信する
Unknown (ゴウ)
2015-11-22 14:13:40
イーノからの影響だったんですか。
「すべての道はイーノに通ず」なんて言葉が浮かんできました。
やっぱりイーノは発想がすごいですよね。彼の「日記」、大事に読んでましたが、
手放してしまって。もう手に入りません。今では後悔しています。

現代美術館、いつ行っても他の美術館ほど混んでませんよ。
そのうち丸ごと間引きされてなくなってしまうんじゃないかと心配で、
あるうちにせいぜい行っとこう、なんて思ってますから。
特に平日はスカスカで、自分はまったく人が居ない時間をねらって行きます。
気に入ったひとつの絵の前にじーっと立っていても、誰も
尻を追い立てない、贅沢な時間です。禅寺の庭を、心を無にして
眺め、フィードバックを楽しむ感じ。現代アートは「空っぽ」なので、
クラシックな絵画とかよりは自分と向き合いやすいですね。

モネ、いいですよね。背景にちいさく描かれた婦人なんんかの、
絵の具をちょっと盛っただけのカタマリなのに、ちゃんと
「佇まい」があるのがすごいです。
返信する
walk out to winter (かたちんば→ゴウさんへ)
2015-11-28 12:12:07
イーノの日記、本屋さんで見たことあるんですが、けっこうな厚みと価格で『また、ちょっとしたら買おう』。そう思っているうち手に入らなくなりました。
ゴウさんの話に触発されて、アマゾンで買おうと思ったら高額中古本になっていました。
でも、良いきっかけをもらったせいか、なかなか向かわない、21世紀入ってからのイーノを昨夜も聴いていました。

現代美術館は(言わずもがな)大竹伸朗さんの全景展の印象が深く残っています。
ただ最近またまた観に行くクセが戻った上野界隈の展示場は、どこも人だらけ。
それで、ゴウさんが言う空き具合はすっかり忘れていました。

美術館は、昔(どこの期間かはおぼろですが)はよっぽど絵が好きな人だけが来ていた気がするんですが、今の東京はどこに行っても『情報』の影響で寿司詰め印象があります。
ほんとはモネ展行きたいんですが。。。

最近むしろ観る機会多いのは、街をふらふらしている中で現れた小さいギャラリーや展示。
場合によると、お年寄りたちのサークルなどの集まり(写真、絵、書)だったり、コドモたちのアートだったり。。。
たまたまの出会いでもそこを覗くと、生身の生きている世界、なにかを創り出そうとする姿が見てとれて刺激を受けます。

ゴウさんは、今ごろもう自転車に乗って、さむい道を走っているんでしょうか。
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