「めめしい」なるコトバがある。語源は「女々しい」。かつては「女の腐ったような」。
明らかなる蔑視から見えた視点から出来たコトバ。
じぶんは「女の腐ったような」など・ふだん使わないが、だからと言ってフェミニストでも一切無い。単純に「色」に弱い男なだけである。
いつも思うのが「女の腐ったような」ではなくて「腐った人間」がしっくり来る。
また「女々しい」もウソで、「男々しい(めめしい)」もある。
この2月後半に差し掛かると、毎度、仕事場で目にするのが、ヒソヒソヒソヒソ・・・あちらだ・こちらだと、人の生活を左右する「人事異動」について、全く楽しそうに・嬉しそうにウワサ話や予想屋が、それをツマミに、仕事は片手間で一杯やっている姿。「ヒトの不幸は、蜜の味」とはよく言ったもので、下劣極まりない。
こういう人間どもは、いったい、産まれて・・・そして、死んで行く、自らの生命をどう捉えているのか?疑問で仕方がない。あんたの人生は勝手にすれば良いが、仕事で終わって良いのかい?後に何が残るんだい?
そう尋ねたい。まあ、しょせんは「他人」なので勝手に生きて・勝手に死ね。
じぶんが嫌う「群れ」ることが大好きな「腐った人間」たち。
おどらされたまま、産まれ・なにもわからない/知ろうとするつもりもないで、平気で死んで行くヒトの通夜になど行くと、「いったい、このヒトの一生は何だったのだろうか?」という「無意味」なるコトバが、泣く親族が居ても思ってしまう。
産まれ・死ぬ謎、不条理への、何のあらがいもせぬまま去っていく者は、酒とバクチとくだらない「人間関係」とやらに【率先して】絡め取られて・それを愉しむ「ヒト」が多い。そんな中、やはりじぶんはエイリアンと自覚する。
「人間は独りじゃ、生きていけないんだから!」などと渡辺美里じゃああるまいし、幼稚な類に属する人間関係の重要さを説教するヒトが居るが、そういう者からは、じぶんは「世捨人」に見えることだろう。
しかし「あなた方の居るほうの、くっだらない岸には行きませんよ」。
そういうゲームが好きで仕方が無い「ヒト」とは一生相容れることはないだろう。
お互いが一定の距離を保ちつつも、糸を感じて・束縛しあうこともなく付き合える「仲間」以外の死はどうでも良い。
「私」が、粘着質である事実は認めるが、想いはそんな感じだろうか。。。
「おまえが言うなよ」と思われる面もあろうが、しかし、そんな「めめしい」話を陰でする時間があったら、じぶんは音楽を聴いたり・街を歩いて写真を撮ったり・本を読んでいたい。
■土屋昌巳 「ホライズン」1988■
【一風堂~ソロに一貫して漂う、土屋さんの好きなジプシー感覚。その中の1曲。】