三 搾取の構造(1)
われわれが労働力または労働能力と言うのは、人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神的諸能力の総体のことである。
マルクスは資本主義経済の核心を成す剰余価値の源泉を労働力の売買に見るが、その際、まず労働力をこう定義づけている。今日、マルクス経済理論を一切顧慮しない経済理論にあっても、労働力の概念だけは継承している。しかし、労働力が単なる物理的な力能にとどまらず、精神的な能力も含めた人格権と結合していることは、しばしば忘れられている。
労働力の所有者と貨幣所持者とは市場で出会い、互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのであり、彼らの違いは、ただ、一方は買い手であり、他方は売り手だということだけであって、両方とも法律上では平等な人格である。
労働市場の観念を簡潔に説明した部分である。労働力売買というと比喩的に聞こえるが、実際のところ、日本の民法における売買契約の条文と雇用契約の条文を対照すれば、その法的な類似性が読み取れる。
民法555条
売買は、当事者の一方がある財産権を相手方に移転することを約し、相手方がこれに対してその代金を支払うことを約することによって、その効力を生ずる。
民法623条
雇用は、当事者の一方が相手方に対して労働に従事することを約し、相手方がこれに対してその報酬を与えることを約することによって、その効力を生ずる。
ただし、マルクスは「この関係の持続は、労働力の所持者がつねに一定の時間を限ってのみ労働力を売ることを必要とする。なぜならば、もし彼が労働力をひとまとめにして一度に売ってしまうならば、彼は自分自身を売ることになり、彼は自由人から奴隷に、商品所持者から商品になってしまうからである。」とし、いわゆる奴隷と賃金労働者の相違に注意を喚起している。もっとも、現代でも残る極度の長時間労働はいかに時間決めであろうと、限りなく奴隷に近づくであろう。
貨幣所持者が労働力を市場で商品として見いだすための第二の本質的な条件は、労働力所持者が自分の労働の対象化されている商品を売ることができないで、ただ自分の生きている肉体のうちにだけ存在する自分の労働力そのものを商品として売りに出さなければならないということである。
自営業者として自作商品を売り出す技能を持っている人以外は、労働市場で自己の労働力を売りに出し、労働者とならざるを得ない。このことは、晩期資本主義の時代にはほぼ法則となっている。
マルクスはこのように労働者となる以外に生活手段を持たない人のことを「自由な労働者」と呼び、「自由というのは、二重の意味でそうなのであって、自由な人として自分の労働力を自分の商品として処分できるという意味と、他方では労働力のほかには商品として売るものをもっていなくて、自分の労働力の実現のために必要なすべての物から解き放たれており、すべての物から自由であるという意味で、自由なのである。」と規定する。
従って、労働者となるには、奴隷や農奴等の隷属的身分から解放された自由人でなければならない。他方で、労働力以外に何も生活手段を持たざる人は、労働者となるほかはない。
この後者を「自由」と呼ぶのは奇異な感じもするが、ここでは「自由な」という意味のほかに、「・・・を欠く」という意味で用いられるドイツ語のfreiや英語のfreeが想定されている。この点でアルバイトなどの非正規職を転々として回る人を指す「フリーター」(freeter?)なる和製英語は、まさにこの意味での究極の「自由な」(=持たざる)労働者像を言い表す正鵠を得た造語である。