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晩期資本論(連載第64回)

2015-09-09 | 〆晩期資本論

十四 銀行資本と信用制度(2)

銀行資本は、(1)現金、すなわち金または銀行券と、(2)有価証券とから成っている。

 銀行資本の構成要素はこの二つに大別される。これをさらに細かくみると、前者(銀行券は現代では中央銀行に集中される)は銀行業者自身の投下資本と預金に分かれ、後者は手形に代表される商業証券と、国債証券に代表される公的有価証券、各種株式等である。

利子生み資本という形態に伴って、確定した規則的な貨幣収入は、それが資本から生ずるものであろうとなかろうと、すべて資本の利子として現われることになる。まず貨幣収入が利子に転化させられ、次に利子といっしょに、その利子の源泉となる資本も見いだされる。同様に、利子生み資本とともに、どの価値額も、収入として支出されさえしなければ、資本として現われる。すなわち、その価値額が生むことのできる可能的または現実的な利子に対立して元金(principal)として現われるのである。

 マルクスが挙げる簡単な例で言えば、25ポンドの利子を生む500ポンドの資本があるとして、「25ポンドの源泉が単なる所有権また債権であろうと、地所のような現実の生産要素であろうと、とにかくそれが直接に譲渡可能であるか、または譲渡可能になる形態を与えられる場合を除けば、純粋に幻想的な観念であり、またそういうものでしかないのである」。
 このような幻想的な資本のことを「仮想資本」(擬制資本)という。なお、「架空資本」という言い方もあるが、これでは作為的に仮装された資本というニュアンスになりかねないので、一般的ではないが、ここでは「仮想」の語を用いる。

仮想資本の形成は資本換算と呼ばれる。すべて規則的に繰り返される収入は、平均利子率で計算されることによって、つまりこの利子率で貸し出される資本があげるはずの収益として計算されることによって資本換算される。

 例えば年収入100ポンドで利子率5パーセントとすると、計算上これは2000ポンドの年利子と想定され、「そこで、この2000ポンドは年額100ポンドにたいする法律上の所有権の資本価額とみなされる」。
 「こうして、資本の現実の価値増殖過程とのいっさいの関連は最後の痕跡に至るまで消え去って、自分自身によって自分を価値増殖する自動体としての資本の観念が固められるのである」。これが先に利子生み資本の呪物的性格と言われたもののからくりである。

債務証書―有価証券―が国債の場合のように純粋に幻想的な資本を表わしているのではない場合でも、この証券の資本価値は純粋に幻想的である。

 国債の場合は、「資本そのものは、国によって食い尽くされ、支出されている。それはもはや存在しない。国の債権者がもっているものは、・・たとえば100ポンドといった国の債務証書である」。これに対して、「会社の株式は、現実の資本を表わしている。すなわち、これらの企業に投下されて機能している資本、またはこのような企業で資本として支出されるために株主によって前貸しされている貨幣額を表わしている」。とはいえ、「株式は、この資本によって実現されるべき剰余価値にたいする按分比例的な所有権にほかならないのである」。

国債証券だけではなく株式を含めてのこのような所有権の価値の独立な運動は、この所有権が、おそらくそれがもとづいているであろう資本または請求権のほかに、現実の資本を形成しているかのような外観を確定する。

 ここで、「仮想資本」という語の意味がより明瞭になる。しかも―

・・このような所有権は、その価格が独特な運動をし独特な定まり方をする商品になるのである。その市場価値は、現実の資本の価値が変化しなくても(といってもその価値増殖は変化するかもしれないが)、その名目価値とは違った規定を与えられる。一方では、その市場価値は、その権利名義によって取得される収益の高さと確実性とにつれて変動する。

 こうして、株式市場に代表される有価証券市場が形成される。周知のとおり、晩期資本主義はこうした有価証券市場を中心に回っていると言っても過言でない。しかし―

これらの証券の減価または増価が、これらの証券が表わしている現実の資本の価値運動にかかわりのないものであるかぎり、一国の富の大きさは、減価または増価の前も後もまったく同じである。

 つまり、こうした証券市場の変動は、実体経済とは離れて生じる。しかし、そうした言わば仮想市場が巨大化した晩期資本主義にあっては、仮想市場の動向が実体経済にも影響を及ぼす。証券バブル経済とその破局はその極端な例である。この点、マルクスも「利子生み資本や信用制度の発展につれて、同じ資本が、または同じ債権でしかないものさえもが、いろいろな人手のなかでいろいろな形で現われるいろいろに違った仕方によって、すべての資本が二倍になるように見え、また三倍になるようにも見える。」と予見していた。

最後に、銀行業者の資本の最後の部分をなすものは、金または銀行券から成っている彼の貨幣準備である。預金は、契約によって比較的長期間にわたるものとして約定されていないかぎり、いつでも預金者が自由に処分できるものである。それは絶えず増減している。しかし、ある人がそれを引き出せば他の人がそれを補充するので、営業状態が正常なときには一般的な平均額はあまり変動しない。

 とはいえ、預金は「利子生み資本として貸し出されており、したがって銀行の金庫のなかにあるのではなく、ただ銀行の帳簿の上で預金者の貸方として現われているだけである。他方では、預金者たちの相互の貸しが彼らの預金引き当ての小切手によって相殺され互いに消去されるかぎりでは、預金はこのような単なる帳簿金額として機能する」。その点では、預金も仮想資本としての性格を持つ。「預金とは、じっさいただ公衆が銀行業者にたいして行なう貸付の特殊な名称でしかないのである」。まとめると―

 すべて資本主義的生産の国には、このような形態で巨大な量のいわゆる利子生み資本またはmoneyed capitalが存在している。そして、貨幣資本の蓄積というものの大きな部分は、生産にたいするこのような請求権の蓄積のほかには、すなわちこのような請求権の市場価格の蓄積、その幻想的な資本価値の蓄積のほかには、なにも意味しないのである。

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