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農民の世界歴史(連載第13回)

2016-11-07 | 〆農民の世界歴史

第4章 ヨーロッパの農民反乱

(1)農奴制の濃淡

 中世ヨーロッパと言えば、農奴制が代名詞のようになるが、農奴制の発現はヨーロッパでも濃淡があった。つとに帝政ローマ晩期には、隷属的な小作人を使役するコロナートゥスが発達しており、その土台の上に西ローマ帝国を継承したゲルマン諸王朝の下では農奴制が発達したと、一応は言えるだろう。
 その点、ゲルマン人は多数の部族に分かれ、統一性がなく、王権を形成しても、その内部は初めから地方豪族の連合体に近いものであった。それら豪族は地元に領地を保有し、農奴に耕作させて利益を上げるという仕組みが確立された。
 ここに農奴という訳語は「奴」という語を残しつつ、「奴隷」という表現は慎重に回避しているように、いわゆる奴隷ではないが、領主に人格的に従属し、移転や職業選択の自由はない限りで束縛されているという微妙な法的地位をよく示している。その点で、西欧の農奴は9世紀に大反乱を起こしたイスラーム世界の農業奴隷とは異なる。
 このような西欧型農奴制の中心地は、ほぼ西欧全域に及ぶ王権を築いたカロリング朝を継承したカペー朝下のフランスとフランス西部の半独立的封建領主が相次いで王家となり、フランス的なものが移植されたイングランドということになる。
 ちなみに、11世紀から13世紀にかけては地球全体が比較的温暖だったと推測されており、中世農奴制の繁栄期もこの時代とほぼ一致している。この時期、特に西欧は気候が良く、緯度の高いイングランドですらブドウ栽培が隆盛化したほどであった。
 そうした農業適合環境に恵まれつつ、農奴制は高い農業生産力を上げた。その背景として、農業技術の発達や貢納後の生産物を農奴が留保できる生産物地代制への変化などの改革による生産意欲の向上などもあったと考えられる。

 一方、ローマ帝国の延長体としての東ローマ=ビザンツ帝国の状況は相当に異なる。ここではコロナートゥスはあまり発達せず、小土地保有者の自由農民から成る農村が軸となっていた。自由農民は屯田兵として兵役を負いつつ(テマ制)、入植・農業開発も担った。
 さらにビザンツ帝国の特質として、農民出自の皇帝も輩出したことが挙げられる。初期の最も著名な皇帝であるユスティニアヌス1世もマケドニア近郊の農民の子であったし、ビザンツ全盛期を演出したマケドニア朝創始者バシレイオス1世はじめ、マケドニア朝ではクーデターで帝位に就いたロマノス1世やミカエル4世も農民の子とされるように、最も多くの農民出自皇帝を出している。
 しかし、皮肉にもこのマケドニア朝の時代に大土地所有制が発生し、自由農民の村落は解体されていった。その後、西欧封建制に類似したプロノイア制と呼ばれる制度が発達するが、これは貴族の軍事奉仕制度であり、領主権を認めるものではなかったと解されている。
 結局、ビザンツ帝国領内では西欧型の農奴制は成立しなかった。しかし、ラテン帝国による占領を経て、末期のパレオロゴス朝になると、西欧化を来たし、プロノイア制の封建制への接近傾向が強まったが、そうした準封建的分裂はまさに帝国の末期状態を示していた。

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