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農民の世界歴史(連載第15回)

2016-11-14 | 〆農民の世界歴史

第4章 ヨーロッパの農民反乱

(3)ドイツ農民戦争

 仏英に遅れて農民反乱が勃発するのが、まさに遅れたドイツであった。中世のドイツは名ばかりの神聖ローマ帝国に包摂されていたが、「帝国」の実態は数百にも及ぶ封建的領邦の集合にすぎなかった。そうした封建的分裂はローマ教皇の財源確保にも好都合であり、ドイツは聖職者の所領を通じたローマ教皇庁の一大収奪場とされていた。
 そのため「ローマの牝牛」とも揶揄されたドイツでは、世俗領主より以上に、教会による収奪への農民の反感が募っていた。それが頂点に達するのは、16世紀、財政難の教皇庁がドイツに対する収奪を強化した時である。中でも、課税より手軽な集金策としてひねり出された免罪符の販売事業は教皇庁による詐欺的とも言える新手の収奪であり、これに対して反旗を翻したのがマルティン・ルターであった。それは宗教改革の始まりであったが、一方では農民戦争の始まりでもあった。
 ルターの宗教改革はまずはルターに感化された騎士階級の反乱を惹起したが、次いで農民反乱を刺激した。西南ドイツを中心にゲリラ的に同時多発した反乱では、かつての仏英の農民反乱とは異なり、農奴制廃止などの明確なマニフェストが掲げられた。いつしかドイツ農民は知的な力量を蓄積していたのだった。
 時に「大戦争」とも称されるドイツ農民戦争のクライマックスは1524年、中部の都市ミュールハウゼンで、宗教改革者トマス・ミュンツアーによって指導された反乱である。ミュンツァーは、ルターに感化されたルター派説教師であったが、農民反乱に懐疑的なルターとは袂を分かち、独自の思想に基づいて農民階級を鼓舞した。
 彼の思想はある種の共産主義に基づく神の国の樹立を求める革命思想であり、ルターのより穏健な改革思想とは明白に対立した。彼を危険視したルターは諸侯に呼びかけて、鎮圧軍を組織させた。武力で劣る農民軍は25年、あっけなく敗北し、ミュンツァーも捕らえられ、処刑された。
 これを最後に、農民戦争は10万人とも言われる犠牲を残して終結した。こうしてドイツ農民戦争は実践的には無残な失敗に終わったわけだが、上述のとおり、反乱軍が掲げたマニフェストは後代の人権宣言の萌芽とも言えるような要素を宿しており、思想的にはブルジョワ革命の先駆けとしての意義を認め得るものであった。
 とはいえ、農民戦争の挫折により、ドイツでは農奴制がいっそう強化される反動現象が生じる。とりわけ農民戦争の舞台とならなかったエルベ河以東のプロイセンを中心とする地域では騎士領主が強力な権限の下、封建的な農場を経営することが普及していった。これは、16世紀の大航海時代以降、仏英などの農奴制が次第に解体し、西欧の都市化が進んでいく中、都市向け商品作物の輸出基地となったドイツでは農奴制が強化されるという皮肉な逆行現象であった。
 講学上「再版農奴制」とも呼ばれるこの東方ドイツ特有の制度は、むしろ「反動農奴制」と呼ぶべき歴史反動であったが、農場経営者たる領主(ユンカー)は、領内の教会と教会運営の学校を通じて農民を精神的にも支配したため、農民は覚醒せず、農民反乱も起こりにくい構造が形成された。
 この封建反動が法的に正されるのはフランス革命の余波を受けた19世紀初頭、プロイセンの自由主義改革の中で農奴解放が制度化された時である。しかしユンカー層はその後も資本主義体制に適応しつつ、新たな形態の搾取を開始していくのであるが、これについては章を改めて見ることにする。

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