第4章 ヨーロッパの農民反乱
(2)仏英の農民反乱
13世紀を過ぎると、西欧農奴制は揺らぎ始める。その要因については貨幣経済の浸透という経済的な要因が大きいと考えられているが、より精神的な要素として、貨幣経済が農奴を覚醒させたということもあっただろう。貨幣計算は打算的な仕方においてではあるが、人を知的に啓発する。
また14世紀以降、地球環境が寒冷期(小氷期)を迎え、西欧でも寒冷化により生産力の低迷が生じたことも、農奴制の限界をさらけ出したと考えられる。そこに黒死病ペストの大流行という自然現象による打撃も加わった。
農奴制の中心地でもあった仏英両国では、英仏百年戦争の影響も顕著であった。危機に陥った国王や封建領主は増税の収奪強化で対処しようとした。そうした中、フランスの農民がまず敏感に反応した。1358年、フランス王国首都パリ近郊のイル・ド・フランス地方の農民が集団的に蜂起したのだ。
この反乱の直接的な要因としては、その二年前のポワティエの戦いで国王ジャン2世がイングランドの捕虜となるという屈辱的敗戦の後、国内が動揺する中、領主が増税や農民の賦役強制などに走ったことへの反発にあったとされる。
当時の農民衣ジャックにちなんでジャックリーの乱と呼ばれるこの反乱は数週間で鎮圧されたものの、その間に領主館が襲撃され、女・子供も皆殺しにされる残酷な暴動に発展した。反乱はパリ市長エティエンヌ・マルセルによって支持され、連携したマルセルによって一時パリは革命解放区の様相を呈した。
マルセルはフランス王位を狙っていたナバラ王カルロス2世との連携も企図したが、カルロスは農民反乱の鎮圧に動いたため、実現せず、マルセルも失墜、暗殺された。結局、反乱は失敗に終わる。
この乱からおよそ20年後の1381年、今度はイングランドで同種の農民反乱が勃発する。イングランドは英仏戦争を優位に進めていたとはいえ、決め手に欠け、戦争の長期化は財政難を招いていた。そのため、人頭税の強化が断行されたことに加え、ペスト禍の中、封建領主による反動的な農奴制強化も加わり、農民の反発が頂点に達していたのだ。
反乱指導者の名を取ってワット・タイラーの乱と呼ばれるこの反乱は比較的組織的に行なわれ、市民の助力も得てロンドンを占領、時の国王リチャード2世との謁見がかなった。国王は反乱側の農奴制廃止や免責などの要求を受け入れる姿勢を示したものの、おそらくこれは懐柔のための計略であり、第二回謁見時にロンドン市長がタイラーを殺害するという挙に出た。
これを機に、政府は反乱指導者の検挙・処刑に動き、反乱は失敗に終わったのだった。ちなみに、この反乱はジョン・ボールなる改革派神父によって精神的に教導されており、彼の言葉「アダムが耕しイヴが紡いでいたとき、誰がジェントリー(地主階級)だったのか」は、近代の階級闘争の先駆けとも言える響きを備えていた。
14世紀後半に起きた仏英二つの失敗した農民反乱は西欧農奴制晩期における農民の政治的な覚醒と領主権力の弱体化を示すエピソードであった。15世紀以降は、農奴解放とその結果としての小作農民の増大により農奴制及びそれを土台とする封建制が解体されていく時代である。