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農民の世界歴史(連載第19回)

2016-11-29 | 〆農民の世界歴史

第5章 日本の農民反乱

(3)農民出自豊臣政権

 室町時代末期の戦国へ向かう混乱の中、下克上により戦国大名にのし上がった武家は、新領地内の一円支配を確立するため、惣村農民の自治を抑制・解体することに注力した。そのため、土一揆の発生は次第に下火となり、加賀一向一揆の革命体制も1580年までに崩壊した。
 時代の新たな主人公となった戦国武将・大名には旧荘官クラスから出た富農出自の武家が多かったが、そうした中にあって豊臣氏は別格的な存在であった。豊臣氏(旧姓木下氏)の出自については純然たる農民か、それとも半農的な下級武士かでいまだ定説は確定しないようであるが、いずれにせよ下層階級から出たことは間違いない。
 ちなみに、秀吉の生母で後に息子の栄進に伴い大政所称号まで得る仲〔なか〕は中世では被差別民であった鍛冶屋の娘と伝えられ、最初の夫で秀吉の実父と目される弥右衛門と死別後、織田氏の同朋衆(お抱え芸能集団)の一人竹阿弥なる男と再婚したとされる。というように、秀吉の出自は明の太祖洪武帝並みに庶民的である。
 彼のあまりに有名な立身出世伝は割愛するが、大名・天下人にのし上がった秀吉の最大の政策は、百戦錬磨の戦国大名たちを統制することと同時に、当時最大化していた自治農民の政治的力量を削ぐことにあった。
 その最大の政策手段が検地である。検地自体は秀吉の発明ではなく、彼が仕えた織田氏をはじめ、戦国大名が獲得した新領地の生産高を確定するために実施していたが、秀吉のいわゆる太閤検地はその範囲の広さと方法の徹底ぶりで集大成的な意義を持っていた。
 太閤検地は全国に及び、かつ農村による自己申告制ではなく、多くは実計測制により、数値のごまかしを防いだ。これによって農地の権利関係を整理しつつ、実際の耕作者を特定・課税し、中間搾取者を一掃するとともに、自治的な惣村を解体していった。
 こうした太閤検地に対する反発が一揆として表出されたのが、1590年の仙北一揆であった。これは越後の上杉氏に命じて実施させた出羽国横手盆地の検地に対して、二次にわたり発生した大規模一揆であり、検地で権利を喪失する在地領主層の反発を背景に、配下農民も加勢して起こされた一揆であった。
 秀吉のもう一つの手段は、兵農分離である。元来、多くの武家が武装化した開発領主層に出自しているため、領民たる農民は戦時には武装した兵士として動員される立場にあった。中世末期には、ある程度軍事に専従する侍衆のような在地武士層が生まれていたが、秀吉の実家のように、農民との境界線はあいまいであった。
 一揆となれば、こうした武装農民の戦闘力は相当なものであり、領主層や天下人にとっても脅威であった。そこで、秀吉は大名間の私戦を禁ずるとともに、刀狩を実施して、農民その他民衆の武装権を剥奪しつつ、兵士と農民を身分上も分離したのであった。
 これは、農民出自とされる秀吉にとっては、自身のような成り上がりの存在を自ら否定するに等しい策であり、このような身分の固定化は続く徳川氏によってより体系的な身分的階級制度として確立されていくことになる。

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