第4章 ヨーロッパの農民反乱
(4)ロシア農民戦争
ヨーロッパで最も遅く農奴制が立ち現れたのは、ロシアであった。元来、中世ロシアでは西欧的な封建制が確立されず、農民には移動の自由があり、ある種の季節労働者であったが、それが反動的に農奴制に変質したのは、雷帝の異名を持つイワン4世の時代である。
雷帝は1580年代、一連の勅令を通じて、段階的に農民の移動を禁止した。ここには雷帝の下、集権的な帝国の建設が鋭意進められる中、大土地所有を制限された領主たちの経済特権を代償的に保証しようという狙いがあったと見られる。
この政策は17世紀に成立したロマノフ朝の第2代皇帝アレクセイの時代に正式に立法化され、ここにロシア農奴制の法的基礎が置かれた。それは西欧農奴制がおおむね慣習的な制度であったのとは対照的に、詳細な法典に整備されたことを特徴とする。
こうして西欧とは逆に、集権国家が整備される過程で反動的に現れたロシア農奴制もある種の「再版農奴制」と言えたが、むしろ西欧が封建制を脱して近世へ向かう時期に発現してきた「後発農奴制」と呼ぶべき特異なものであった。元来は、相対的な自由を保持していたロシア農民にとっては不本意な制度改悪であり、禁令にもかかわらず、逃亡農奴は後を絶たなかった。
その際、ロシア南部に成立していた軍事的自治勢力であるコサックが逃亡農奴のサンクチュアリーとなっていたことから、ロシアにおける農民反乱はコサックの反乱という独特の形態を取ることになる。こうした農民反乱の性格を持ったコサックの大規模な反乱は、17世紀から18世紀にかけて三たび発生し、それぞれ指導者の名を取ってラージンの乱、ブラヴィンの乱、プガチョフの乱と呼ばれている。
このうち、最も大規模に帝国を揺るがせたのが一連の反乱の最後のもので、1773年に勃発したプガチョフの乱である。これはその規模からいって、一つの戦争と呼ぶべきものであった。時代はエカチェリーナ2世女帝の治世であり、ロシア帝国にとっては全盛期であった。それは同時に、ロシア農奴制の最悪期でもあり、この時代の農奴は市場で売買されたり、債務の抵当にすら入れられたりするようになり、言葉の真の意味での農奴ではなく、奴隷に近い存在にまで貶められていた。
元来は啓蒙思想の持ち主であったエカチェリーナはロシア全域で農民反乱がゲリラ的に頻発していた治世初期には農奴制の改革を志向しようとしたこともあったが、領主貴族層の猛反対にあっていた。そうした中、彗星のように現れたのがドン河流域を拠点とするドン・コサックの一人エメリヤン・プガチョフであった。彼はエカチェリーナ女帝がクーデターで廃位に追い込み、不審死を遂げた夫で先帝のピョートル3世を僭称しつつ、農奴制廃止を掲げて蜂起した。
彼は単なる反乱指導者にとどまらず、農民や労働者、少数民族を動員した混成軍を組織しつつ、周辺都市を占領し、一定の統治機構を備えたある種の地方革命政権の樹立にまで及んだ。しかし、ドン・コサックの領域を超えた急激な膨張がもともと限界のある寄せ集め戦力の拡散を招いた。
決定的な戦略ミスはカザン攻略に失敗し、戦力を消耗したことであった。この戦いで盛り返したロシア帝国軍に大敗した反乱軍残党は敗走するが、ピョートル3世の僭称が家族の証言で暴かれ、同志の裏切りによって捕らわれたプガチョフはモスクワに護送され、公開処刑された。
こうしてプガチョフの乱は一年余りで失敗に終わった。乱後、女帝は再発防止のため、かえって農奴制を強化する反動的姿勢を鮮明にしたため、ロシア農奴制はさらに継続し、法的に廃止されるのはプガチョフの乱からおよそ90年後の農奴解放令によってであった。