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近代革命の社会力学(連載第205回)

2021-03-01 | 〆近代革命の社会力学

三十 中国大陸革命

(4)解放から内戦へ
 日中戦争は当初、物量で優位な日本側が圧倒するかに見えたが、中国側が同時期の他国のレジスタンスでは例を見ない共産勢力と反共勢力による統一戦線を組んで臨んだ結果、長期の膠着状態に陥り、決着が見通せない状況にあった。
 しかし、日本が太平洋戦争に敗れ、ついに無条件降伏したことで、日中戦争も終焉する。ここでも、共産党主体のレジスタンス勢力がほぼ独力で枢軸軍を撃退したユーゴスラヴィアやアルバニアとは異なり、解放後、共産党がそのまま革命政権の主体として平行移動する経過は辿らなかった。
 国共合作はあくまでも抗日レジスタンスを目的とする暫定的・戦略的な統一戦線であって、国共間のイデオロギー的な相違を埋めるものではなかったから、抗日の目的が消失すれば、直ちに内戦が再開する危険を内包していた。
 ことに1937年以来、延安に根拠地を置いてきた中共は、一時、党内で失権していた毛沢東が復権し、レジスタンスを通じて多くの農民党員・兵士を獲得し、農村を基盤とする実質的な農民階級政党として成長しており、反共ブルジョワ階級政党の国民党との相違は、逆説的なことに、国共合作の中で顕著になっていた。
 とはいえ、多大の犠牲を払ったレジスタンスがようやく終結した直後の段階では、民衆の厭戦気分も強かった。そうした気分を反映して、国共両党は1945年10月10日、内戦を終結させ、孫文の三民主義に立ち返った新たな民主的統一政権を樹立することを約した協定(双十協定)を締結した。
 中国(中華民国)は戦後の新秩序の中で英米仏ソに続く五大国の一角を占めるに至っていたため、戦後秩序の主導者となったアメリカも中国の安定化に関心を寄せ、1946年1月にはアメリカの仲介で停戦協定が成立した。ソ連も異議を唱えなかったため、この和平プロセスは順調に進むかに思われた。
 同時に、国共両党はその他諸派も加えた新政権準備会議に相当する政治協商会議を重慶にて開催し、憲法改正案・政府組織案・国民大会案・平和建国綱領などの重要決議を採択した。この時点で主導権は国民党にあったが、同党は臨時政府に相当する国民政府委員会の構成上、過半数を握らず、中共も参加する挙国一致政権を発足させた。
 しかし、こうした表の政治力学の背後では、国共両党の主導権争いがすでに水面下で始まっており、中共側が提案する民主連合政府構想を中共の主導権獲得戦略と見抜いた国民党側はこれを拒否、かえって党大会で国民党の主導権を強化する決議を採択するなどし、双十協定をなし崩しに破棄していった。
 1946年6月には、国民党の蒋介石が国民党軍に対し、中共根拠地・支配地域に対する全面侵攻の指令を下し、ついに国共内戦が再開された。これに対し、中共の毛沢東は人民戦争の理論で迎え撃ち、内戦は両党の総力戦へと進展していく。

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