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近代革命の社会力学(連載第214回)

2021-03-26 | 〆近代革命の社会力学

二十九 ベトナム・レジスタンス革命

(5)ラオス独立革命との交差
 ベトナムの独立革命(八月革命)は、同じインドシナ半島内のラオスやカンボジアには直接の波及的な影響を及ぼすことがなかったのであるが、ラオスに関しては、失敗に終わったとはいえ、交差的な独立革命の動きが見られた。
 明号作戦でインドシナ半島を一度は単独で占領した日本軍は、ラオスについても、フランスから引き剥がす形で、フランス支配下で形骸化していたルアンパバーン王国のシーサワーンウォン国王を擁立してラオス王国を建てたが、日本の敗戦後、国王は独立を取り消し、フランス宗主下への復帰を望んだ。
 こうしてラオスではいったんはベトナムと正反対の力学が働いたことになるが、これに反発した王族ペサラートは、異母弟スパーヌウォンらとともにラーオ・イサラ(自由ラーオ)を結成し、1945年10月、国王廃位とペサラートを首班とする臨時抗戦政府の樹立を宣言した。
 ただ、ラーオ・イサラは様々な民族主義者の集合体であり、ベトミンにおける共産党のように核となる勢力がなかったうえ、民衆の支持も希薄であった。当然、武力も弱体で、当初はベトミンのほか、建国革命前の中国共産党軍の一部によって支援されることで、維持されていた。
 しかし、46年に中国共産党軍が撤退すると、ラーオ・イサラ体制は一挙に弱体化する。同年4月にはフランス軍の攻勢により、首都ビエンチャンが陥落したのを契機に、ラーオ・イサラ体制はあえなく崩壊、同年10月には組織も解散となった。
 ただし、副産物として、スパーヌウォンは、インドシナ共産党のメンバーでもあったカイソーン・ポムウィハーンとともに、改めてネーオ・ラーオ・イサラ(ラオス自由戦線)を結成し、反仏闘争に入った。
 一方、フランスは改めてシーサワーンウォン国王を擁立してフランス連合内の「協同国」名目でラオス王国の再建を認めたが、この新生ラオス王国はフランスに外交・防衛を委託する保護国に近い形で存続していく。
 これに対し、ネーオ・ラーオ・イサラは武装部門としてパテート・ラーオ(ラオス人民解放軍)を創設してラオス北部で闘争を続けるとともに、ラオスにも飛び火した第一次インドシナ戦争でもベトミン側と共闘した。
 ネーオ・ラーオ・イサラは1953年までにベトミンと連携してラオス北西部の実効支配の確立に成功したが、54年のジュネーブ協定で第一次インドシナ戦争が停戦となると、ラオス情勢も変化し、ネーオ・ラーオ・イサラもネーオ・ラーオ・ハク・サット(ラオス愛国戦線)と改称したうえ、王国政府と連合することとなった。
 55年にはインドシナ共産党から分岐する形でラオスにおける他名称共産党であるラオス人民党(後に人民革命党)が結党され、カイソーンが初代書記長に就任した。
 しかし、その後、連合体制の崩壊に伴い、カイソーンは、王族ながら共産主義者と行動を共にしたことから「赤い殿下」の異名を取るスパーヌウォンらとともに革命闘争に入り、以後、70年代半ばの社会主義革命までラオスは内乱状態となる。

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