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近代革命の社会力学(連載第216回)

2021-03-31 | 〆近代革命の社会力学

三十一 インドネシア独立革命

(2)日本軍政と民族主義の解放
 20世紀初頭に覚醒するオランダ領東インド(インドネシア)における民族主義運動は、当初イスラーム系のサレカット・イスラム(イスラム同盟、以下「同盟」)が圧倒的な先導者であった。これは、インドネシアがオランダの植民地に下る以前から、おおむねイスラーム化されていたことからして、自然な流れであった。
 発足時は穏健な協調主義的団体であった同盟は第一次世界大戦後に浮上してきた民族自決テーゼにも影響されて急進化したが、その直接の契機となったのが、党内分派として派生した共産党であった。
 イスラーム団体から通常は対立的な共産党が派生するという力学も珍しいことであるが、これにはオランダ人の共産主義活動家ヘンドリクス・スネーフリートによる組織工作も関わっていた。彼は、当時のインドネシアで最も活動的な団体であった同盟を利用する形で、インドネシアにおける共産主義運動の火付け役となったのである。
 しかし、このような民族主義の急進化、まして共産化となると、オランダ当局の容認できるところではなかった。そのため、1920年代に弾圧を強化し、団体、共産党ともに閉塞状況に追い込むことに成功した。
 そうした中、1927年、オランダ留学組エリート層の中から新たな民族主義の潮流が起きる。その中心にあったのがジャワ島下級貴族出身のスカルノであり、彼は1927年、同志とともにインドネシア国民党(以下、国民党)を結党した。
 国民党はインドネシアにおける最初の近代的な国民政党とも言える草分けであり、活動形態は政治集会を通じた穏健なものであったが、公然インドネシアの独立を訴えたことから、オランダ当局を刺激し、スカルノはたびたび逮捕・投獄を強いられた。結局、1931年、国民党も自主解散の形で消滅に追い込まれた。
 こうしてインドネシアにおける民族主義運動はオランダ当局の強硬な抑圧策によって、1930年までに沈黙させられた。その状況が一変するのが、1942年に始まる日本の統治下である。
 統治といっても、軍による占領統治の域を出ず、本格的な植民地支配は確立されていなかったため、日本としては統治の安定確保のためにも在地の協力者を必要とした。こうして、スカルノをはじめとする民族主義者が解放され、活動を許されることとなった。
 その結果、スカルノらは民族総結集運動を組織し、日本の支援の下に、オランダも属する連合国軍と対決する道を選択した。他方で、日本軍は現地人による民兵組織として共同防衛義勇軍(ペタ)を設立させ、軍政の言わば下支えを託したのである。後にスカルノを失権させて第二代大統領となるスハルトも、ペタの一員であった。
 もっとも、日本軍の狙いはあくまでも当面の軍政を安定させることにあり、究極的には当時の日本支配層が描いた日本中心の新たな地政学構想である「大東亜共栄圏」の中に東南アジア全域を組み入れる野望を秘めていたことは否めず、純粋に民族独立を目指すスカルノらとは言わば同床異夢の協働関係にあった。
 従って、少なくとも日本軍政初期の段階では、日本がインドネシアの独立を容認することはなかったが、スカルノら民族主義者を利用した限りでは、オランダ当局によって長く抑圧されていた民族主義を刺激し、解放したことはたしかであり、民兵組織の結成と合わせ、それらが結果として来る独立革命への道を準備したのである。

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