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近代革命の社会力学(連載第212回)

2021-03-22 | 〆近代革命の社会力学

二十九 ベトナム・レジスタンス革命

(3)独立同盟の結成と八月革命の成功
 ゲティン・ソヴィエトの崩壊後、ベトナム革命運動の振り子は再び独立の方に振れる。これはゲティン・ソヴィエトの後、ホー・チ・ミンのライバルであったチャン・フーら共産党コミンテルン派がフランス当局による処刑・弾圧により壊滅状態となったことに加え、コミンテルン自身も反ファシズム人民戦線の結成を支援する方針に転換したためでもあった。
 国際情勢の面でも、1939年の第二次世界大戦の勃発に続き、40年にはナチスドイツによるフランス侵攻・占領により、フランスにナチス傀儡のヴィシー政府が成立し、ベトナムを含むフランス領インドシナもヴィシー政権の支配下に編入された。これにより、インドシナも枢軸勢力側に組み込まれた形になる。
 同時に、同じ枢軸側の日本がヴィシー政府とのもつれた交渉の末、1940年にはインドシナ北部、翌41年には南部に進攻し、最終的にはヴィシー政府との間で(日本側優位の)共同統治体制の構築に成功した。
 こうした情勢変化を受け、ホーは1941年、実に30年ぶりにベトナムに帰国し、東北部のカオバン省にて、新たな独立運動組織となる「ベトナム独立同盟会」(ベトミン)を結成した。この組織はベトナム版人民戦線組織とも言えるものであったが、にわか作りのうえ、長く外国にあったホーの指導力も確立されておらず、実効的なレジスタンス活動は困難であった。
 そこで、共産主義者のホーは意外にも中国国民党に軍事面での支援を求め、訪中したが、ホーを危険視した国民党はホーを逮捕し、一年余りも拘束した。ホーは最終的に国民党と合作中の中国共産党の仲介で釈放、1944年に帰国を果たすも、結局、レジスタンス組織としてのベトミンの活動は、枢軸側、中でも日本の敗北が事実上決するまで休眠状態にあった。
 一方、日本は1945年3月、ヴィシー政権の崩壊を受けて、インドシナを武力制圧するクーデター的軍事作戦(明号作戦)を展開、フランスを排除して、それまでフランスの傀儡として形式的に君臨していた阮朝のバオ・ダイ帝を擁立し、改めてベトナム帝国を建てた。
 そうした中、革命的決起のチャンスは、1945年8月に到来する。同月13日、日本の無条件降伏近しの情報を得たホーは総蜂起の秘密指令を下した。果たして15日に日本が無条件降伏を宣言すると、ベトミンは17日からハノイで蜂起を開始、19日までに主要機関を制圧した。
 これに続き、月末にかけてフエ、サイゴンなどの主要都市もベトミンが制圧、26日にはホーがハノイ入りした。バオ・ダイ帝は統治を続ける意思がないばかりか、独立運動家としてのホーを評価し、進んで退位したことにより、19世紀以来の阮朝は終焉し、9月2日にはベトナム民主共和国の樹立が宣言された。
 こうして、1945年8月におけるごく短時日のタイムラインで示すことができることから「八月革命」とも呼ばれるベトナムの独立‐共和革命は日仏両枢軸勢力敗戦直後の空隙を巧みに突いて実行されたもので、枢軸勢力の敗戦同種の革命としては異例なほど円滑に成功を収めたのであった。
 新たに成立したベトナム民主共和国は国家主席に就任したホーを中心とする連合体制であり、社会主義を掲げながらも、共産党支配ではなく、むしろ45年11月にはあえて共産党を解党し、ベトミンに合流させるという徹底した連合政策を採った。こうしたことから、ベトナム八月革命は社会主義革命というより、進歩派の連合による人民民主主義革命の性格を持つと言える。
 共産党解党策は革命政権内部の抗争から内戦に陥るというロシア革命で典型的に見られた流れを阻止する上では有効であり、八月革命は内戦を惹起することがなかった点でも成功した革命であったが、戦後、インドシナ半島権益の奪回を狙うフランスとの間で交渉が難航、対仏全面戦争に至り、事後的な革命防衛戦争を阻止することはできなかった。

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