旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

鋸山の「百尺観音」

2024-11-11 13:40:56 | 国内
百尺=約30mの観音像。


ロープウェイでわずか4分。

↑几帳面な鑿跡が間近に見える。
この絶壁が石を切り出したことで出現したのは驚きだ。

鋸山は標高329mしかないが一級の景色が楽しめる。

↑南側は安房の国

鋸山は江戸時代以前からの国境だった。
実際に気候もちがうのだそうだ。

↑金谷の街は上総の国↑対岸は三浦半島↑10kmほどしか離れていない

↑この穴も石を切り出した跡のようだ

ロープウェイの建物の上階には石切りの歴史を解説してある展示

サイズを統一して切り出していた。

「石を運び出すのは女性の仕事でした」ときいてびっくり↑なるほど女性が運んでいる。

↑一本80㎏を三本乗せた「猫車」で下まで一日三往復以上していたそうな。

凝灰岩は火に強いので竈の材料に適していた。


展望テラスから日本寺の境内へ。

採石がはじまる前から鋸山の山頂は日本寺の寺領だった。

↑拝観料を払って入る。


しばらく登り、左手に曲がると

鑿跡の中をあるいていく

ひらけたさきに見えてくるのは

「地獄覗き」の場所

・・・あそこまで登るのはたいへんそうだなぁ

「地獄覗き」に向かって歩いていくと、右手に巨大な観音像があらわれた

昭和35年から六年かけて削り出された、日本最大の摩崖仏。
圧倒される。
周囲の壁の鑿跡は手彫り時代のもの。つまり、採石が機械化された昭和33年以前の壁。
採石が終わったのは昭和60年(1985年)。
この観音像は採石を続けながら観光客を呼び込んでいた時期につくられたのだ。

観音像を右後ろに、日本寺北の料金所を一度出る↓

石の壁が続く

下の方に↓

↑「1937年明大」などと彫り込んである
この時代はロープウェイなどなかったから、北側の登山道を一時間半ほど登ってここにたどり着いたのだ。

↑今は山歩き好きだけが利用するハイキングコース。
わざわざここまで出たのは、
通称「ラピュタの壁」を見るため↓

垂直に彫り続けてできた90mの壁



歩くのが苦手という方でも、ここまでは頑張ってきてほしい。

北側の登山道↓

↑このルートには採石の歴史を身近に感じられる場所がたくさんある。
個人的に歩く機会をつくってみたい。

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浜金谷駅から街歩きで鋸山ロープウェイへ

2024-11-08 18:01:08 | 国内
浜金谷駅のホームから、鋸山が屏風のようにそびえている。
何百年にもわたり石を切り出した跡があの絶壁。

駅から五分ほどで「鋸山美術館」に到着↓
↓美術館の壁は一部だけ房州石をはりつけてある↓

↑ほんとうはぜんぶ房州石で建設したかったそうだが、建設がはじまったのは2000年代、石の切り出しはとっくに終わっていた。

今、ちょっとぞわぞわするような展覧会が開催中↓

小豆島の「妖怪博物館」の協力だそうだ。

三つほどの展示室だがしっかりした展示環境になっている。



美術館の裏手にある蔵は★鋸山資料館

白く塗ってあるが房州石できている。

↑表に出して見せている部分に、房州石の最高級品「桜目」が使われている。

なるほど、桜の花びらを散らしたよう(^^)

蔵の内部に鋸山の歴史がわかりやすく展示されている

室町時代には切り出しがはじまっていた。


↑こんな手順で切り出されていたのか↓きちんと揃った切り出し跡は

マニュアル化された作業がきちんと守られていた証拠。
海外でもいろいろな採掘現場を見てきたが、ここまできちんとした切り出し跡を見た記憶がない。「日本人気質」のあらわれなのかしらん。
急な階段を二階に登る。

↑石の切り出しを仕切っていた元締めのひとつ「芳家石店(よしげせきてん)」の半纏。

「芳家」は屋号で鈴木がファミリーの名前

金谷を歩くと鋸山から切り出された房州石の壁が続く。


昔切り出された石の棒もそこここにある。

ひときわ立派な塀は今も鈴木さん宅



↑ひときわ目立つ大屋根は↑白川郷から移築された古民家で

↑雰囲気あるカフェになっている。


金谷の駅から東京湾フェリーの乗り場まで歩いても遠くない

小さな川が流れ
気になる昭和レトロなお店もある。
《手造の旅》で一泊してもよいかなと思ったが、コレだと思える宿がみあがらなかった。
鋸山で多くの人は訪れるのにほとんど首都圏から日帰りばかりではもったいない。

ロープウェイ乗り場近くの小さな神社には

謎の「大鏡鐵」もある↓

※こちらにもう少し書きました


ロープウェイ乗り場到着!

レトロな紙の切符です。



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竹生島に残る秀吉の大阪城

2024-11-05 12:09:46 | 国内
↑写真左上に映っている「観音堂」の入り口が秀吉の大阪城から移築された「唐門」だったと確認されたのは2006年のこと。

色鮮やかに塗りなおされた↑
↓2024年10月、この内部に安置されている千手観音像が特別公開された↓

二メートルもある金色の千手観音像も印象的だったが、それが安置されている「観音堂」の空間そのものに秀吉の生きた時代を感じた。(写真は撮らせてもらえなかったが)唐門のような極彩色の復元ではなく、漆の古びた様をうまく復元していた。「秀吉もここを見たかもしれない」と、思わせてくれた(※当然移築前)。

↑「観音堂」は突き当り
↑右側の廊下は朝鮮出兵の際の御座船を逆さにして使ったと伝承されている。
※竹生島宝厳寺のHPに解説されています

↑これが「舟廊下」↓下は「観音堂」から見たところ↓


「大阪の陣」で地上から抹殺された秀吉の大阪城の遺構は、1603年に移築していたから現代まで残った。

「舟廊下」でつながった先にある通称「竹生島神社」の正式名称は「都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)」
これが「ちくぶしま」の由来と考えられている。

この本殿内部もまた秀吉ゆかりの伏見桃山城勅使門を移築したもの。
「豊臣秀吉が寄進しました伏見桃山城の勅使殿を移転したもので、国宝」※竹生島神社のHPにリンクします

↑外側の木彫だけでも一見の価値がある↑

↑公開される機会がきたたらぜひ訪れたい。
竹生島には秀吉ゆかりの建物がたくさん移築されている。

秀頼か北政所かに命じられて実際に移築に携わった片桐勝元が記念に植樹したモチの木↓

↓樹高は高くないが四百年を感じさせる。


竹生島に寄進する人は中世から現代まで途切れない↓

↑こちらの弁天堂は昭和17年に瀧富太郎の莫大な寄進により完成した。
本尊の秘仏弁財天はもとは現在の「竹生島神社」社殿に置かれていたが明治の廃仏毀釈によってお堂から出されてしまっていた。そのためのお堂を昭和12年に建てはじめたが日中戦争でストップ。そこに瀧富太郎の寄進が入った。↓経緯が記された石碑⇒

↓こちらの三重塔は平成12年に、三百五十年ぶりに再建された。



「竹生島神社」本殿から振り返ると↓

拝殿が湖を背景にしている↑
拝殿から鳥居に向かって「かわらけ投げ」!
フリスビーみたいに投げるとよく飛ぶのだそうな。なるほど(^^♪

港に降りて15:55発の今津港行きを待つ。抹茶のソフトクリームがいたくおいしかったのは素晴らしい秋晴れのせいかもしれないお天気だけは天からの賜物







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16世紀の計画都市ヴァレッタ

2024-11-01 10:34:22 | マルタ
2006年4月マルタの旅より
マンハッタンのようにまっすぐな道。

それは計画してつくられた都市だから。
ドームは「カーマライト教会(カルメリータ会のバジリカ)」。
※ヴァレッタ建設時16世紀後半に建設されたが1942年第二次大戦で爆撃破壊、1981年に再建された


起伏のある半島にまっすぐな道を通したので、サンフランシスコのような急坂になっているところもある。

1980年に世界遺産にも登録された。
街の名前は都市を計画したフランス人ジャン・ド・ラ・ヴァレット名前からつけられた(街は女性名詞なので語尾変化している)。

二度目に訪れたのは街が建設されて440年記念の2006年↑
↑町の入り口門に記念の幕↑
**
前夜、アムステルダムからの直行便で到着した。

日本から当日乗り継ぎで到着できる唯一の便だった。
マルタ航空機内で出されたマルタ独特の炭酸飲料「キニー」※解説ページにリンクします



翌朝、城壁で囲まれているヴァレッタに気付く

国章になっている先割れ十字は淡路島の半分ほどしかない島を独立国にした騎士団の紋章。

騎士団のルーツは11世紀にエルサレムで設立されたキリスト教徒の巡礼者を看護する病院。
それを守るために結成された「聖ヨハネ騎士団」である。
1291年、聖地がイスラム教徒によって陥落し、
1309年、ロードス島に本拠を移した※小松が訪れた時のブログにリンクします
1523年、ロードス島もオスマントルコ帝国の猛攻をうけ、
騎士団はロードス・シティを明け渡した。
1530年、神聖ローマ皇帝カール五世からマルタ島を領土に賜る。
賃料は年に鷹一羽。

騎士たちはオスマントルコがこの島にもやってくることを予期していた。
果たして、1565年オスマントルコはマルタ島を包囲。
だが、すでに要塞化していた街は猛攻もちこたえた。

↑当時の「Great Siege(大包囲)」の遺物はたくさん展示されている↑
↑丸いのは鉄砲の鉛球とそれを形成する道具↑

↑当時の騎士団長ヴァレットの甲冑の本物↑わりに小柄な人だったようだ。
包囲を持ちこたえた翌年、ヴァレットは新しい要塞都市の建設をはじめた。
それが現在、彼の名前をとってヴァレッタと名付けられた街である。

ヴァレッタに建設された「聖ヨハネ大聖堂」の床には騎士たちの墓石がずらりと並んでいる↑
ヴァレットの墓もここに移された。

1608年、「大包囲」で功績をあげて騎士団長になったアフロ・ド・ヴィニャンクルの庇護を求め、マルタにやってきた画家カラヴァッジョが「聖ヨハネの斬首」を描いた。

↑間近に見たかったが遠くて暗い…

カラヴァッジョの絵はもともと暗い画面にスポットライトを当てたような構成なのだが。

↑聖ヨハネの首から流れた血で「ミェランジェロ・メリージ」(カラヴァッジョの本名)とサインされている


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玉泉寺、近江孤蓬庵を訪れてから竹生島フェリーに乗る

2024-10-30 12:22:41 | 国内
長浜港と伊吹山のシルエット。

10月14日 朝七時、ホテル目の前の長浜港に「うみのこ号」が停泊中。
今日は子供たちを乗せて「フローティング・スクール」が開催されるのだそうだ。
※スクールの概要にリンクします
滋賀の子供たちは琵琶湖についての学習をこんなかたちで体験するのか。
ホテルの朝食

**
午前、最初に玉泉寺を訪れた。

比叡山中興の祖とされる元三大師良源の生誕地に建てられた寺。

↑元三大師が「鬼大師」として描かれたお守り札

↑小松がはじめて訪れた時、現在ここを預かっておられる慈敬和尚が製作された元三大師の生涯を分かりやすく解説した漫画本をいただいた。
今回ご参加の皆さんにもぜひこれを読んでいただきたくてご案内した。

江戸時代に建てられた(改修された?)立派な本堂でお話を聴いた。太い梁に「安永九年(1780年)」と墨書されているのが見える。
***

近江孤蓬庵はいつ訪れても季節の草花が迎えてくれる。

小堀遠州ゆかりの庭は四季折々に訪れる価値がある。
※2024年春に訪れた時のブログにリンクします

一時は荒れていた庭は江戸時代からの姿を取り戻しているように見える。

↓自然に見える石の配置も↓よく計算されている↓三つの石は釈迦三尊

↑左の細長い石が世を渡ってゆく「船」=人を表すという解釈もあり。
「孤蓬」とは「一艘の苫舟」の意。小堀政一=遠州の号。

↑御本尊からまっすぐ庭に出た正面に置かれた平たい石の上で座禅を組んだのだそうだ。

****
朝しっかり食べたし、夜は近江牛懐石の予定だし、

ランチは竹生島フェリーで、長浜名物「サラダパン」でよいか(^^♪
※サラダパンにたくあんが挟んである写真をこちらに載せています

長浜駅近くの秀吉に茶を差し出す少年の石田三成の像※由来が書かれたページにリンクします

水陸両用観光車両とすれちがった。

12時半ごろ長浜港は竹生島へ行く人で長蛇の列。
今、六十年に一度しか開帳しない千手観音像が特別拝観できるのです。
我々は13:05のフェリーに乗船。

伊吹山が遠くなるにつれて

竹生島が近づいてきた。
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