旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

嵯峨島~離島のさらに離島①千畳敷

2024-12-06 16:17:43 | 国内
二つの火山の重なりがつくりだした豪快な千畳敷。

西海国立公園のなかでも指折りの絶景。

嵯峨ノ島(嵯峨島)は五島列島のなかでも流罪に使われた、離島の中の離島。

江戸時代よりずっと以前に京都から流されてきた公家が「嵯峨島」と名付けたと伝わる。
**
11月21日午後、福江島の貝津港から連絡船に乗った。

来訪者は片道880円

十五分ほどの航海だが中ほどでけっこう揺れた。

周囲9㎞ほどのひょうたん型をした島は男岳・女岳二つの火山の噴火で出来た。
島でひとつだけになってしまった集落に、島唯一の自動販売機がある。

「ちょっと前まで女岳のふもとにキリスト教徒の集落がもうひとつあったんですが…、島の人口は住民台帳で90人ですが実質50人ほどと言われています」

港と逆の海岸に冒頭写真の千畳敷がある。
十分ほど歩けばもう海。



細い階段降りて千畳敷に出る。

びゅ~びゅ~海風にさらされる千畳敷の上。

足元に注意して歩いてゆくと、

「これは越えられないな」と思う海食洞(海が削った洞窟)に出た。が…
「もうちょっと行くと火口が見える場所があるんですよ」と、橋のようになった部分を超えるNさん。
え!行くんですか

「こまさんもこんね(小松さんも来ない?)」↓

全員で行きましょうとは言えない場所だ。が、どんな場所かはお伝えしたい。

小松、代表して超えました。

火口エリアを覗いてきます。

落っこちたくはない穴を横目にしばらくいくと

赤く高い崖がみえた。

↑なるほど、火口が波に削られて断面図のように半分になっていたのだ。
※「五島の島旅」に上から見た写真がありました
噴火の時に飛んできた石がそのまま地層につきささっている。



「日本にもこんなところがあるのですね」

離島で離島にやってきただけのことはある場所でした。

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堂崎教会から椿茶屋へ

2024-12-03 09:09:01 | 国内

11月21日朝、福江島のガイドをお願いしているNさんの奥様が届けてくださった手作りのかんころ餅。
ほどよく炙ってあってまだ暖かい。

福江から堂崎教会へ向かうバスでぱくぱく食べた。
昨夜11月20日夜は*Nさんお勧めのお店で夕食。


Nさんが貴重な椿油をくださった。

お肌にも、ドレッシングにもできるのだそうだ。

じゃんけん大会に勝ったお一人には特大瓶!
**

堂崎教会は五島列島ではじめての本格洋風建築。

↑この解説版に書かれているフランス人神父二人の像が教会の前にある↓


※2017年に訪れた時のブログにリンクします

教会から50mほどしか離れていないのに↑目立たない民俗資料館↑信仰というより生活を記録しているそうだ。解説してもらいながらゆっくり見学したいなぁ…

***

福江城の城下町跡を通った。

「こぼれ石」がのせられている↑
侵入しようとする者があると崩れて音をたてる防犯装置とか、防衛の際に投げるのだとか。

もとお城があった場所には県立五島高校がある。

周囲の掘割はお城のまま。

★福江城は江戸末期に建設された「日本最後の城」だと解説されるが、
※五島島旅にリンクします
実際には江戸初期1614年に建設された「石田陣屋」がもとになっていて、石垣は17世紀初頭のままの場所も多い。
※2020年11月に城の中にある屋敷と庭園を訪れたが、この時にもちゃんと理解できていなかった

※博物館のジオラマ↑江戸末期に三方を海に囲まれていた様子を再現している


お昼ご飯の椿茶屋に向かう途中、鬼岳のカルデラが見えた↑

11時半前に着いたので昔ながらの塩づくりを見学。


お昼ご飯を食べ終わるころ…航空会社から「不幸のメール」がはいった…
今日夕方の福江⇒長崎便が欠航する。
利用するはずだったお二人に知らせると、今日中に東京にもどらなければならないという。
今からなら13:20に福江港から長崎港にむかうジェットホイルに間に合う。
すぐに電話して車を手配。
午後訪れる予定だった嵯峨ノ島だけは諦めていただいた。
あぁ、ここまですべて順調だったのに…ほんとうに残念。
*****
五島列島の旅は毎日船と飛行機で移動する。
予定通りいかないどころか、五島列島に入れないかもしれない。
どこかの島に閉じ込められるかもしれない。
《手造の旅》を四回催行してここまで何にも遭わなかったことに感謝しなければならないのだろうけれど…。


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「イエス様はずっとおられた」キリシタン洞窟から久賀島へ

2024-12-01 10:12:30 | 国内
「イエス様はずっとおられたんだと思いました。これまで何十回も来ていたのに気づきませんでした。」ガイドしてくださっている信徒のHさんが感慨深げに言った。

↑茨の冠をつけたキリストがうつむいている↑

11月20日、土井の浦港を出た船は十分ほどでこの岩場の前に着く。

明治初期に迫害を逃れたキリスト教徒たち十二人が、海からしか近づけない岩場に逃げ込み暮らしていいた。
が、煮炊きの煙で見つかり捕まった。

十字架は昭和42年にたてられた。
※2017年に訪れた時のブログにリンクします
接岸できる時は希。
一度だけ上陸できたことがある。
奥行き50m以上もある広い空間が突き抜けている。
十字架がたてられたのと逆の開口部に冒頭のお顔が見えたのだった。

目に入ることと、
それを認識することは別。


久賀島の外側は岩場ばかり↑この向こうに穏やかな入り江と耕作地がひろがっていることなど想像できない。
※U字型をした久賀島の地図を、2017年はじめて訪れた時のブログに載せています

浜脇教会が見えてきた。

近くに古い神社も見える↑五島列島というと教会ばかり注目されるが、寺社にも知るべき歴史がある。いつかちゃんと向き合う時間をとりたいと思っているが、個人的に訪れて・知識のある研究者の方に同行してもらわなければ無理だろう。ツアー造成をしていくなかでは実現できそうもない。


田ノ浦港に上陸。手配していた久賀島のタクシーで教会へ。
※2020年の同じルートのブログにリンクします

その後U字型の内側にある、昔の代官所へ。

今は観光拠点センターになっていて昼食を予約した。



タクシー二台で入り江向こうの「牢屋の窄」に到着↓

対岸に↓さっきまで昼食を食べていた交流センターが見える↓


「肝だめしの場所になっていました。年に一度殉教祭があってけれど、大人は詳しいことを話してくれなかったんです」
明治初年に起きた●牢屋の窄の悲劇については、
久賀島で子供時代をすごしたHさんも詳しく知らされていなかった。

何度も訪れているが、残酷な顛末について知るほどに考えてしまう。

二百人が八か月にわたって十二畳ほどの牢(として使われた家)に詰め込まれた。
力尽きて地面に落ちると仲間に踏まれて命尽き腐敗していった。

亡くなった43人の名前が刻まれた丸石↑中央の十字架の下には生き延びた人々の名前が書かれている。
現在の久賀島の信徒はすべて、牢屋の窄の生き残りの子孫なのだそうだ。

今回はじめて知ったことは

実際の牢屋は↑この場所にあったということ。

↑現在教会がある場所ではなかった。
この建物が一見教会らしくないのは、もと発電所の建物を改築転用したから。

教会の後ろにある「監視所跡」

最後に旧五輪教会へ向かう。

林の中を降りてゆく。

廃屋の跡がそこここにある。

五輪地区の入り江が見えてきた。



↑今は立ち入りが制限されている道を上ると江戸時代隠れ切支丹だった時代からの墓地がある。

浜脇教会として明治10年もしくは明治14年に建築された建物。
船大工だった平山亀吉=亀太郎が長崎の大浦天主堂をモデルにした。
昭和6年に今の浜脇教会が建設されることになり、解体されて五輪地区に運ばれた。
昭和60年(1985年)に老朽化で壊して同じ場所に新たに教会を建てる話が出たが幸い保存され、平成11年(1999年)国の重要文化財に指定された。現在はユネスコ世界文化遺産のひとつになっている。

松の木を使ったので

松ヤニが噴出している部分がある。

瓦は何度も新しくされたが↑木造部分に時代が見える。

福江島に向かう。







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中通島 有川から頭が島へ

2024-11-29 11:55:00 | 国内
「世界遺産」登録を記念して2018年に発行された頭ヶ島教会の切手には、掃除をする女性が描かれている。

彼女・頭島サナさんの家は教会の目の前で、三十年以上教会の前の道を掃除しておられた。2015年のドキュメンタリー番組当時、彼女の家を含む七戸だけが集落を守っていたそうだ。※番組のことが書かれたブログにリンクします
三十年も掃除を続けられていた姿は信仰そのものに思える。
サナさんは番組と同じ年に亡くなられた。
**

11月20日AOKAを出て有川へ向かうと↓「鯨見山」が見えてきた↓

解説版によると、山の上の「山見小屋」から鯨が来たことを知らせていた。
「一番多く捕れた年は、元禄11年(1698年)の83.5頭」とあった。
※なぜ「.5頭」なのだろう?
一週間に一頭か二頭も鯨が捕れていたのか。

丘の下の神社は鯨のあごの骨が鳥居になっている。
かつては髭など他の部位も飾られていたのだが風雨で朽ちてしまい、あごの骨だけはコーティングして保存したとのこと。

江戸から昭和まで三百年も続いた捕鯨の歴史がある。
※2020年有川のフェリーターミナルに巨大な鯨の骨が飾ってありました

↑近くに土俵↑有川出身の横綱にちなんだ「佐田の山杯」が行われていたのだそうだ↑
佐田の山は=出羽の海理事長で、舞の海の師匠※舞の海との写真にリンクします


複雑な入り江をくねくね走る。

崎浦は昭和三十年代まで「五島石」の採石がおこなわれていた。
長崎県の景観保護地区になっている※リンクします

石塀はその名残。

頭が島の空港開設にあわせて1981年に建設された赤い橋を渡って頭ヶ島に入る。
※2018年空港まで行った時のブログにリンクします、石油備蓄基地の話も書いています

尾根から↑ロクロ島に護られた入り江の集落が見下ろせる↓

↑頭が島教会の赤い屋根が見えた。

頭が島はもともと伝染病患者が隔離される場所だったので地元の人々が近寄らなかった。
だからこそ「隠れ切支丹」には好都合だった。

冒頭の教会に到着

立派な駐車場と事務所も整備された。

頭が島のジオラマ

山ばかりで耕作地など見えない。

この教会は鉄川与助が29歳の時最初に手掛けた石造りの教会。
石材の扱いに慣れていなくて、てはじめに教会の前にある司教館を建てたのだそうだ。

↑こちらの方が教会より前にあったのか。

石は入り江を護るようにある「ロクロ島」から切りだしていた。
「ロクロ」とは胴体のこと。
伝説では仏像のアタマが見つかったのが「頭が島」で、胴体が見つかったのが「ロクロ島」。

ステンドグラスを入れる経済的余裕はなかった。
***
再び赤い橋を渡り中通島へもどる。

坂本龍馬の記念碑がある。

仲間の乗った船が嵐に遭って沈没したのがこの近く。

ただ沈没したのではなく、複雑な経緯があるようだがまた別の機会に。

****

土井の浦へ行く途中に立ち寄る。

百年以上前の教会だが内部は最近塗り替えられていた。

前回訪れた時、内装の椿は真っ赤に塗ってあったが、今回は薄いピンクに変わっていた。

*****

土井の浦への途中にいくつも小さなキリスト教徒の集落がある。
それらはほとんどがカトリックだが、桐の集落だけは「カクレ」を引き継いでいるとドライバーさんが教えてくれた。

江戸時代に弾圧され潜伏していた切支丹たちは、明治になって再び出会ったカトリックとは似て非なる宗教になっていた。
小説「五島崩れ」の中で描かれているように、礼拝の日時や形式を「間違えた」まま何世代も引き継いだ。フランスからやってきた司祭が「それは間違いです」と否定しても、すんなり受け入れることはできなかった。父祖を「間違った」礼拝で見送り・祀っていたとは思いたくなかった。

カトリック教会は、「隠れ切支丹」時代のモノは焼き捨ててから復帰せよと命じてきた。
代々大切に引き継いできたモノを否定させるやりかたに納得できない人々は、今も父祖からの「カクレ」を継承している。

土井の浦港からチャーター船。
四年ぶりにHさんが迎えてくださった。





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江袋教会からAOKAホテルへ

2024-11-27 23:34:38 | 国内
小値賀島から横断幕に見送られ

中通島の津和崎港にもどった。
※2017年に訪れた時のブログに小値賀島と野崎島と中通島の位置がわかる地図も載せてあります<

漁師さんの待合室で迎えの車を待っていると、

↑こんな張り紙が目に付いた。

↑中通島の細く北へ延びる半島を南下する↓夕陽の見える西側と夕陽が当たる東側、両方の景色が楽しめる。

この廃バスはアニメ「蒼の彼方のフォーリズム」の「聖地」めぐりで訪れる人もいるのだそうな※「聖地マップ」にリンクします
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途中に上記リンクの2017年に訪れた江袋教会に寄った。

この教会は2007年に火災に遭った。
建て替える方が安価な状態だったが、信徒たちの「できる限りもとのように戻したい」という強い希望があった。
三年後、建て替える十倍近い?(ドライバーさんにきいた話です)2億円をかけて現在みられる教会ができあがった。

↑なるほど焼け残った材を可能な限り組み込んである。
内部は見られなかったが、焼け焦げた太い梁も再利用しているのをドライバーさんがおしえてくださった

2017年に訪れた朝、急な階段を上って祭壇に花を飾りに来られた方と話したことがあった。暮らしやすい土地でなくても、先人の想いを継いでおられる人がある。



鐘楼は当時のままだろうか。

さらに南下する。

暗くなりはじめたころ青砂ヶ浦教会前に止まった。
正面入り口の左右、女性の入り口 男性の入り口と、使い分けられているそうな。
**

宿泊するホテルAOKAが見えてきた。

山形の有名レストランが協力した宿

楽しませてくれます。
が、料理の解説がもう少し詳しく聞きたかったなぁ。

中通島の教会がひとつひとつ描かれていた。

さっき見た江袋教会はすぐわかった。

ロビーに置かれた図書は、ホテルの魅力のひとつ。明治初期に久賀島で起きたキリスト教徒大弾圧をえがいた「五島崩れ」は、書店でなかなか手に取ることができない。

福江島でガイドをしてくださる永冶さんの「五島事典」もあった。




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