ザダルの12-13世紀のロマネスク様式の「ストシャ(アナスタシア)大聖堂」↓
均整のとれたファサード。上部の小さ目のバラ窓は後代に開けられたもの。
内部↓

左側廊の突き当りに、ストシャの遺骨がおさめられたシンプルな石棺がある↓

近づいてみると↓上部に由来が刻まれている

もともとコンスタンチノープルにあったものを、聖ドナートがここにもたらしたのだと記されている。
★ストシャはザダルの四人の守護聖人の一人
紀元後三世紀末ディオクレティアヌス帝の時代に現セルビア領シルミウムで殉教した女性。
コンスタンチノープルにあった遺骨を東ローマ皇帝ニケファロス一世がここへ譲渡した。
その移送と保管の命をうけたて9世紀ザダルの司教ドナートゥスがつくらせた石棺だった。
※彼が建設させた円筒形の大教会についてはこちらに書きました
交流のあった東方教会の中心アヤ・ソフィアのマトロネオと似た二階の手すり↓

ここへ上がってゆく階段の扉↓

ミサで歌う女性たちが足早に登っていった。
***
現在見えている聖堂の姿がどのぐらい中世の姿を再現できているか、注意深く検証する必要がある。
たとえば、ファサードにある緑色の石をはめこんだフリース装飾↓※像の下の部分横長↓

これは19世紀の復元時に追加されたのだという。
現代の復元ではなかったものを追加するなどぜったいありえないが、19世紀の復元とは「美しさを復元する」ことが目的だったから、時にこのようなこともおこなわれた。
この話を知ってから鐘楼を見あがてみると、同じような色石装飾がめについた↓

鐘楼は15世紀半ばヴェネチア支配時代と解説されるけれど、調べてみると今現在見られるものはトーマス・グラハム・ジャクソンというイギリス人が1893年に復元完成させたものだった。
****
大聖堂の前小さな広場の敷石は一見とても古いもののように見える↓しかし、一角に年号のプレートがある↓

1892年に敷設したとイタリア語で書かれている
戦争で落とされた爆弾の跡がある↓この扉は大聖堂に向かって右側すぐのところにあるのだが、この場所に着弾した↓新しく敷きかえられたのがわかる

↓こちらはフォロに立つローマ時代の柱すぐちかく↓

直撃されなくてほんとうによかった

この柱には九世紀ごろの石版がとりつけられている。十字架とそれを囲むストランダ(組紐文様)が中世クロアチアの初期キリスト教文様によく用いられている↓


内部↓

左側廊の突き当りに、ストシャの遺骨がおさめられたシンプルな石棺がある↓

近づいてみると↓上部に由来が刻まれている

もともとコンスタンチノープルにあったものを、聖ドナートがここにもたらしたのだと記されている。
★ストシャはザダルの四人の守護聖人の一人
紀元後三世紀末ディオクレティアヌス帝の時代に現セルビア領シルミウムで殉教した女性。
コンスタンチノープルにあった遺骨を東ローマ皇帝ニケファロス一世がここへ譲渡した。
その移送と保管の命をうけたて9世紀ザダルの司教ドナートゥスがつくらせた石棺だった。
※彼が建設させた円筒形の大教会についてはこちらに書きました
交流のあった東方教会の中心アヤ・ソフィアのマトロネオと似た二階の手すり↓

ここへ上がってゆく階段の扉↓

ミサで歌う女性たちが足早に登っていった。
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現在見えている聖堂の姿がどのぐらい中世の姿を再現できているか、注意深く検証する必要がある。
たとえば、ファサードにある緑色の石をはめこんだフリース装飾↓※像の下の部分横長↓

これは19世紀の復元時に追加されたのだという。
現代の復元ではなかったものを追加するなどぜったいありえないが、19世紀の復元とは「美しさを復元する」ことが目的だったから、時にこのようなこともおこなわれた。
この話を知ってから鐘楼を見あがてみると、同じような色石装飾がめについた↓

鐘楼は15世紀半ばヴェネチア支配時代と解説されるけれど、調べてみると今現在見られるものはトーマス・グラハム・ジャクソンというイギリス人が1893年に復元完成させたものだった。
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大聖堂の前小さな広場の敷石は一見とても古いもののように見える↓しかし、一角に年号のプレートがある↓

1892年に敷設したとイタリア語で書かれている
戦争で落とされた爆弾の跡がある↓この扉は大聖堂に向かって右側すぐのところにあるのだが、この場所に着弾した↓新しく敷きかえられたのがわかる

↓こちらはフォロに立つローマ時代の柱すぐちかく↓

直撃されなくてほんとうによかった

この柱には九世紀ごろの石版がとりつけられている。十字架とそれを囲むストランダ(組紐文様)が中世クロアチアの初期キリスト教文様によく用いられている↓
